「現代思想 加害者を考える 2022.7vol.50-9より」
10月の読書会では、「現代思想 加害者を考える 2022.7vol.50-9」を取り上げました。
加害者臨床、修復的司法という重いテーマではありましたが、本会最多の参加者で開催することができ、この分野への関心の高さが伺えました。
主な感想としては、加害がどうなることが被害者にとって「救われる」ということなのか。一方で、加害者臨床という形で加害者はスポットが当たれば当たるほど、被害者にとっては辛いことであり、そもそも「被害者が救われる」というのとは究極的にはないのかもしれない、との感想も聞かれました。
加害者臨床の文脈は個人的には司法における一種の福祉的視点の提供でもあるとテキストを読み、また参加者の意見を聞きながら感じたところです。従来の司法制度は基本的に加害者に罰を与え更生と社会復帰を促す一方的なものでした。その中では加害者は一つの記号として扱われるもので、彼らが加害に至る背景や刑罰を受けた後の社会的居場所の問題などは扱われることは少ないものでした。また被害者への意識も希薄で、裁判員裁判はこのような司法制度への批判と応答的法への脱却を狙って行われたものです。
加害者の加害へ至る過程は壮絶なものであり、そのほとんどが両親からの虐待やネグレクト、学生時代のいじめやリンチの経験者が多数を占めていました。こうした過程の中で、彼らが自分自身の存在を証明する手段は暴力にほとんど限られており、親の愛情を知らず、自らの感情のコントロールも難しい中で加害行為に走り、またすぐに再犯へと繋がっていくことが「現代思想」の中では指摘されていました。
加害者の背景へと思いを馳せることと、彼らの犯した罪を正当化することは次元の異なることですが、この辺りはまだ日本では受け入れられているとは言い難い面があるとも感じました。
そして、加害行為というのは、犯罪というものだけではなく、セクシャルハラスメントなど身近な事例のことも指します。また、参加者の方より、年長者から「こんな時代にしてしまって申し訳ない」というような言動をされ、これをどのように受け止めれば良いのか分からない、との意見もあり、興味深く聞いたところです。加害意識からくる謝罪や贖罪を、どのように受け止めればいいのか。そして、謝罪の対象者とされる自身に被害者という意識がない場合だってあるわけです。
加害と被害というものには複雑な関係性があり、それは社会環境を投影したものでもあります。
また従来では被害者は加害者や加害行為に隠れる存在でしたが、被害者の苦しみを反映する言葉としてPTSDなどが一般的用語として理解をされることで、「被害者の痛み」の風化し辛い社会になってきていることは、良いことなのではないか、との指摘もありました。
今回の読書会は非常に重いテーマであり、各参加者の個人的体験もいくつか聞くことができました。その中で、私たちは誰かにとっては加害者でもあり、また被害者にもなり得るということを感じました。犯罪という形でなくても、私たちが相互関係の中にある限り伴う瞬間であるのかもしれません。
「現代思想」において、加害行為は主に犯罪にフォーカスしたものとなっていました。その加害行為には多分に社会環境が反映されたらものであることも重要な示唆であると思います。このことは司法のみでは被害者救済も、加害者更正も不可能であることを表しているように思えてなりませんでした。加害も被害も社会の中で起こっていることには変わりなく、その意味でこれは私たちの社会がいかにあるのか、との問いでもあると感じました。