「死ぬ瞬間 死とその過程について」 E.キューブラー・ロス
現代において、死というものに触れる機会は少ない。
例えば平安時代には、死は身近にあった。道端に死体が転がっていることは当たり前だった。それは疫病や飢饉を描いた絵巻にも死体があちこちに転がったままにされている描写にもうかがい知ることができるだろう。死とは身近なものであり、当然忌むべきものでもあったが同時に人々は自らの命の儚さ、病や避けられぬ老いに思いを馳せることもできたのだろう。そこで、宗教というものの社会的効用だって実感できる。
翻って現代へと目を向けると、大抵の死は管理されている。病院の中で多くの人は死を迎える。幸運な人は自宅で家族に見守られながら最期を迎えるが、それはもはや「贅沢」なことでもあるのだろう。平均寿命と健康寿命との乖離は医学の進歩によってますます大きくなる。そうなれば、常になんらかの管や機器に繋がれることが常態化した人々が自らの家で最期を迎えることは難しい。こうして、死というものは病院という高度に管理された空間の中でのみ繰り返される事象へとなっていく。
三島由紀夫はこうした「現代」について、「我々は交通事故以外では滅多に死なず、健康な青年を脅かした兵役と、病弱な青年を脅かした結核とからは完全に免れている。生きているという実感を持てない社会」であると書いた。改めて、死というものがどういう存在であるのかを考えるとき、それは学術書を読み込むよりも実際に死に直面した人々の言葉を追っていく方がずっと「実感」を伴うだろう、という素朴な感情だ。
本書の筆者であるキューブラーは、臨床の場で実際に末期患者たちに膨大なインタビューを行った経験を持つ。自らがすでに完治する見込みのない末期状態であることを宣告された患者たちは、不合理で非常識な行動を取ることが多くある。だが、その裏側に隠された本音はどんな人にも共通にあるような心の働きである。
それを端的に表現をするならば、「話を聞いてくれる他者が欲しい」ということに尽きる。死にゆく道程に、付き随ってくれる他者はいない。どんなに献身的な家族や医療従事者でも、そこまで「フォロー」をすることはできない。死とはたった一人でゆくものであることは、変わらない。
最期の時に人が求めることは、静かに語り合うことのできる他者の存在であるのだ。
それは家族であり、医師であり、カウンセラーでも良い。相手がどのような社会的属性なのかは究極的には問われないのではないか。
純粋に私たちに必要なもの、私たちが癒されるものとは自分の存在を受け止めてくれる無償なる他者の存在である。私たちが死に際して求めるのは、他者からの共感であり受容である。そして、他者とのこうしたプロセスを通じて死を受け入れるプロセスもまた、達成されるのではないか。
キューブラーは、典型的な死を受け入れるプロセスとして以下を挙げる。
否認/孤立→怒り→取り引き→抑うつ→受容である。
はじめ人は、末期を宣告された時「そんなはずはない」「自分に限って……」と現実を否認する。そして、医師の診断や治療法についても頑なに否認するが故に、次第に孤立をしていく。そして、その次には強烈な怒りが湧き上がってくるのだ。
この「怒り」の項について、とても興味深いインタビューが載っていた。患者は43歳のシスターで、彼女は病院の看護師たちにとって「厄介な患者」でしかなかった。自らも患者であるくせに、ほかの患者たちの部屋へ行き話を聞き、その要望を事細かく看護師たちに伝えていた。極力自分のことは自分でしようとして、ケアを受けることを拒否した。だから、看護師たちは誰もシスターの病室へは寄り付かず、彼女は孤独な存在であった。だが表面上はそんなことすらも、シスターは歯牙にかけず看護師たちの至らなさ、怠慢さを厳しく批判していたのだ。
キューブラーは彼女に自分の体験について話してみないかと持ちかける。彼女はかなり乗り気でインタビューに応じる。やり取りを読んでいて思うことは、シスターがとても聡明な人であるということだ。彼女は自らの信仰の危機についても語るのだが、それはとある無神論者の男性との出会いからだという。彼はとても皮肉屋でシスターに対してもずけずけと嫌味を言うのだが、そのやり取りの中でシスターは自らの信仰も誰かの借り物をただ復唱していたに過ぎないことに気がつく。それは受け入れがたい事でもあったが、自らのことや信仰、神について考え直す貴重なきっかけになったとシスターはいう。そして、現在の看護体制についてシスターは長々と批判をしていくのだが、実は彼女自身も看護師として働いた経験があり、そこに患者としての視線が横軸として刺さった、説得力のあるものであった。流れ作業的に治療が行われていく現状と看護師たちの姿勢について、彼女は「怒って」いた。だが話を続けていくうちに、本当に怒っていたことは看護師たちについてではないことがわかる。
シスターは少女時代から、母親のように大人しく家事や育児をすることがどうにも耐えがたいことのように思えてならなかった。だから、彼女は外へ出たがり、確信を持って修道女という生き方を選択した。シスターの怒りとは、自らと対極の生き方をした母親への怒りであり、同時に母のようになれなかった自分自身への怒りでもあった。そのことをキューブラーが指摘すると、彼女は「そうかもしれない」と素直に聞く。そして、このインタビューの後、驚くことに彼女はそれまで行なっていた入院患者たちの元へ訪れて話を聞くことをやめたのだ。これを機に、看護師たちの態度も変わった。積極的にシスターの病室へ訪れ話を聞くようになった。その後シスターは自らの修道院へと戻った数ヶ月後に亡くなった。
彼女はインタビューの中で、「教育があれば人は謙虚になります」と語っている。死へのプロセスも、言葉を変えれば社会的教育の一つであると言える。何年か前の週刊誌に「自分の死を子どもに看取って欲しいか」とのアンケートに、多くの人が「看取って欲しい」とチェックを入れていた。その理由は様々であるが、その一つに「親としてできる最後の教育だから」という理由が目を引いた。
死というのは、当人はもちろんのこと周りにいる人々にとっても大きな意味を持つ。文字通り、それは教育的な様相を帯びることも多いだろう。
本書を読んで改めて思ったことは、他者の存在の大きさである。
人は独りでは、死と向き合えない。
実際にそれまで死を受け入れているように見えた患者が、精神的な症状を呈するという極端な形で「死への忌避」を表現した事例もある。
最期の時に人が求めることは、静かに語り合うことのできる他者の存在である。純粋に私たちに必要なもの、癒されるものとは自分の存在を受け止めてくれる無償なる他者の存在である。
だが、現代では孤独死に代表されるように、この他者の存在は希薄である。家族はもちろんのこと、医療従事者であっても流れ作業の中に患者の死があることも、仕方のないことであるかもしれない。
死というものは、誰にでも平等にやってくるものである。そして、その受容のプロセスも万人に共通のものである。その周辺機器としての社会や他者というものの一端は私たち一人一人の姿である。その人の「死に方」どのようなものであったのかは、同時に私たちの今の「生き方」がどのようなものであるのかの写し鏡であるのだ。
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