「シュルレアリスムと性」グザヴィエル・ゴーチエ 平凡社ライブラリー
本書の帯はなかなか刺激的であった。
曰く、「抜きがたい男根主義」である。自由と奇抜、そして奔放を辞任する前衛芸術のムーブメントをして、男根主義とはどのようなものなのだろうか?
それを考える前に、まずこの「シュルレアリスム」とはどんな芸術運動なのかを見ていきたい。
シュルレアリスムは、戦間期にフランスで起こった作家アンドレ・ブルトンを中心とする文学・芸術運動である。
シュルレアリスムを展開したアンドレ・ブルトンによれば、「口頭、記述、その他のあらゆる方法によって、思考の真の動きを表現しようとする純粋な心的オートマティスム。理性による監視をすべて排除し、美的・道徳的なすべての先入見から離れた、思考の書き取り」とする定義がある。シュルレアリスムの活動そのものは1919年頃から最初の運動が行われていたが、1924年のブルトンの手になる「シュルレアリスム宣言」によって本格的にその運動を開始していく。シュルレアリスムはフロイトの精神分析とマルクスの革命思想を思想的基盤とし、無意識の探求・表出による人間の全体性の回復を目指した。当初は文学上の運動としての色合いが濃かったが、次第に絵画の分野にも広がっていく。高名なサルバドール・ダリ、ルネ・マルグリットなどがシュルレアリスムの系譜に当たる芸術家である。
また日本においてシュルレアリスムが前衛芸術として発展を遂げたのは1930年代以降のことであり、ブルトンが提唱した無意識の探求という本来の目的から離れ、「現実離れした奇抜で幻想的な芸術」という意味で「シュール」という日本独自の概念・表現が生まれることにもなった。
シュルレアリスムについて、その姿勢を端的に表したと思える箇所がある。
マルセル・デュシャンがレンブラントの絵の最高の利用法は、それをアイロン台に使うことだと言っている。そこには、「展示されたオブジェは去勢されている」からである。シュルレアリスムも、本来美術館には存在しないという思われているオブジェをそこへ持ち込もうと望んでいた。こうした前衛的な姿勢を持ちながらも、女性に対するシュルレアリスムの視線は頑なで保守的なものであった。
ゴーチエはそれをこんな風に指摘する。
「この不平等な世界分割を通じて、女は美と無邪気さを所有し、男は行動と労働を所有する。男は過去を有し、女は瞬間を生きる。女は生命を伝達し、男は世界を創る」
「女性が一切であるというのは、明らかに、男性の脳髄の外では女性がなにものでもないということである。女性はなにものでもない、男性の『こしらえたもの』にすぎない。そんな女性にやれることと言えば、『女性の神秘』というあの伝統的神話の住人として、ひたすら愛を『こしらえ上げる』ことしかないのである」
シュルレアリスムはその精神において、あくまで男性の視点からしか女性を描けなかった。それは矛盾と非合理に基づいたものでしかなく、ゴーチエが書くように、女にある種の神話と役割とを押し付けるものであった。
ここにおいて、女には対極的な両面価値が与えられる。ある時は聖女・淑女・母親としての女であり、ある時は魔女・魔性の女・娼婦というような、女性像である。ゴーチエはシュルレアリスムの病的なこうした矛盾する性への見方について、「性的倒錯」という項を設けて考察していく。特に同性愛についてが興味深い。同じ同性愛でも女性同士のものは芸術家にとって全く異なるものを惹起したのだと分かる。男性同士はあからさまな嫌悪と倒錯の烙印を押されるが、女性同士は露骨な窃視趣味と好奇心、ある種の幻想の押しつけを付与されるのだ。
ゴーチエは「シュルレアリストたちは(彼らの思想的基盤であったはずの)マルクスを裏切り、フロイトを理解しなかった」とも指摘する。精神分析とマルクス主義の去勢化は、ブルジョワジーの玩具を作り出すことにしかならなかったと批判する。
シュルレアリストの傲慢さは、彼らが「自らの外に女性を認めなかったこと」ではない。表面上は人間全体の回復を標榜しながらも、男女という二項関係においてその一方の解放を認めなかったことである。ゆえに、シュルレアリスムの男根主義は「抜きがたい」ものであったのだ。シュルレアリスムの失敗とは、芸術性の限界ではなく、こうした思想的限界にあったのだ。もっとも、思想なき芸術はすでに芸術でなく、その限界もまた、芸術そのものの限界であるのだが……。
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