「文化人類学の思考法」松村圭一郎 中川理 石井美保編 世界思想社

これからの社会を形作っていく学問とは、なんであろうか?
それとも、すでに学問という枠組みそのものが意味を持たなくなっているかもしれない。私たちの未来とは、そのような可能性をも秘めているものである。未来を形作る先端技術であるAIは、ある分野ではとっくに人を凌駕している。そうしたテクノロジーはSF的なものとしてでなく、私たちの生活や意識に深く根ざした応用的なものとして存在している。こうした領域でも、変わらない問いかけは残っている。
それが、「人とはどのような存在なのか」という問いである。この問いに、文化人類学というアプローチはとても刺激的で複雑である。


「私たちとは、どのような存在なのか?」
文化人類学の持つ射程とは、社会に存在するあらゆるものを対象とする。家族、経済、法律、文化……。それらを「遠く」から相対的に捉え、自己との関わり、変容を通して学問的に探求していく。今回取り上げる「文化人類学の思考法」は文化人類学の視点とアプローチの方法を分かりやすく、しかし多面的に取り上げていく入門書である。研究者たちの熱意が伝わってくるのも良い点である。
例えば、こんな文章がある。

「スマホを手放すことであなたが不安を感じるのだとしたら、それは、スマホがあなたの日常を構成する環世界の一部となり、あなた自身の生活を規定し始めていることになる」

文化人類学は、私たちの生活の中にある様々な文化的ツールから改めて「私」を定義し直していく。そして、そこから「これから」を展望していくのだ。その視点は、社会や文化、人々の意識の中にある絶対化された「当たり前」を、相対的に捉えな直す学問的姿勢が如実に現れているのだ。
文化人類学は前提として、私たちの意識を「私たちがたまたま生まれ落ちた社会・文化によって大きく制約されている」とする。だが一方で、「私たちはみな、そうした制約を見直し、新たな社会的状況にあった社会・文化を創造していくことができる」という発展的な地平にも立っている。
ここで問題となるのは、どこまでも「人」である。そして、その人を同心円的に広げ社会や文化との相対的関わりについてだ。そうした関わりの中で、改めて「私たち」自身の姿が浮かび上がっていくのだ。
特に印象に残ったのが、本文中で取り上げられる衆議院選の結果を話し合う大学生たちのやり取りだ。そこでは意識の高い学生たちが選挙の結果を嘆き、「無知な人たちの選択が選挙結果に現われた」とする意見に賛同が集まる。だが、静かにやり取りを聞いていた学生の一人がぽつんと、「そうやって、別の誰かを無知であると分断する姿勢そのものが、選挙結果に現われているのではないか」と呟く。場は一気に静かになったそうだ。
文化人類学の視点とは、まさにこの学生のような視点を持つ。つまり、自分自身の絶対的な価値観を相対化し転換した先の変容の学問なのである。ゆえに、文化人類学とは人々のあらゆる営みをその材料とする。

「人類学を規定するのは、民族誌でもなければ対象とされるフィールドでもない。ある営みを人類学たらしめているものは、人々について(of)の研究ではなく、人々ととも(with)に学ぶという構えである」

これを「人類学する」と、著者たちは書く。
これから、人と機械との境目はますます希薄になっていく。それは大きな可能性であると共に、重大な突きつけでもある。
そのような世界で、人とは、私とはいかなる存在であるのか?
そこで求められるのは、テクノロジーではない。自己をいかに相対化し、また変容して適応していけれるのか。実利的なことではなくて、こうした発展的な思考なのではないだろうか。

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