その先の知性へ。

専門知から統合知へ。
最近知性の在り方というものについて、そんな風に考えている。この1年ほど、精神医学や心理学その他関連することを学んで、改めて感じたことは、いかに学際的な学びとそのための知性(知力ともいうべきか)を育てられるかであるということだ。
これはなにも専門知の否定ではなく、むしろ高度な専門知を踏まえたうえでそれらを統合するような包括的な知性の在り方を考えるものだ。たとえば、「心」とはどのような存在なのかという問いがある。脳科学的に見るならば、「心」と一般に呼ばれる諸々の精神活動、あるいはそれに付随する生体反応は「脳」によって引き起こされている。ゆえに、脳科学的な解答は「心は脳にある」となるだろう。だが、脳のそうした高次元な活動は生体の中のみで完結するものではない。社会や文化、宗教、性別、民族といった「科学的でない」不確実性の高い複雑なシステムとの相互作用、あるいは統合された環境の中でそれは実体と意味とを持っている。こうした理解は脳に関する生理学という専門知あるいは社会や宗教といったものへの個別の専門知のみでは不可能である。
このことについて、私は文化人類学という学問がとても魅力的に映っている。
文化人類学には、文化相対主義という中核的な概念がある。文化や文明とは、従来は白人の特にキリスト教文化圏に根差した領域を指し、いかにそうした文化圏がアジアやアフリカといった有色人種の文化圏よりも優れているかを「絶対化」するような歴史的ムーブメントがあった。これに対し、文化相対主義はどの文化圏や文明のもとにも優劣はなく、その風土や民族、言語などによって独自に培われたものとして「相対化」する概念だ。ここにあるのは優劣や勝者/敗者、搾取する者とされる者という二元論や二項対立ではない。むしろ、これまで「未開」であるとされて人々や文化から学ぼうとする学問的姿勢がある。
これはそのまま、自らの固定概念というものと、そうでない異物としての他の概念や存在との必然的な邂逅を意味し、さらに自己変容をも迫るものでもある。
最近読んだ文化人類学の著作に、ティム・インゴルドの「人類学とはなにか」というものがあって、彼はその中において「私の定義では、人類学とは、世界に入っていき、人々と共にする哲学である」と書いている。
自らと他者との相対化。
こうした思考の働きは、そのまま統合知そのものであると私は思う。またインゴルドは文化相対主義について、ラディカルな指摘をする。


「文化相対主義は、ある文化に属する人々は自分たちの信念に従って行動を判断するが、そうした判断は彼ら自身の内在的論理あるいは合理性を有しており、何人たりとも、絶対的で、文化から自由な価値の尺度によって優劣をランク付けされることはできないという見方である。あまり好意的だとは言えないやり方でこのことを表現するもう一つの方法は、人類学は何でもありで、要するに、人間の振る舞い……その最もグロテスクで、忌まわしいものでさえ『文化の一部』だという理由で常に許されるというものである。人類学者は、普遍的な人権の概念に関して言えば、煮え切らないことで評判が悪い。……しかし、例えば、何の倫理的な羅針盤も信じない学の意見などいったい誰が真剣に受け取ったりするものかと、人類学の批判者たちは言う。……しかしもう一つの道としては、私たち自身の発明の普遍性を主張するのではなく、寛大であると同時に批判的な精神でもって会話に加わることである」


私がこの問題で面白いのは、やはりそこに他者の視線と存在とが明確にあることだ。当然文化人類学とは、人の集団を対象に研究を行うのでそれは当たり前なのかもしれないが、ここで想定される他者とは、研究対象としての「観察される」他者ではなく、能動的力動的な他者である。それは観察者をも巻き込んでいくものだ。そこではニュートラルな関係性へと誰もが変容していく土壌がある。そのために会話というものがある。
またインゴルドは「最後の手段として人類学者を駆り立てるのは、知識を希求することではなく、気遣い(ケア)の倫理である」とも述べている。
知性というものは、感情というものからいかに切り離されるか、という問題をはらんでいた。だが社会やそこに存在する人々を取り巻く環境はより複雑に高度に抽象的になっている。
社会は豊かになっているのか。人々はどこまで豊かになれば幸せになるのか。そもそも豊かさとはなにを指すのか。生きづらさとは、一体なんなのか。
先進諸国の社会情勢は、ここに来てさらに複雑になっている。こうした困難な時代に、どのような知性が必要なのだろうか。だが感情と切り離された知性に、この困難な問題を本当に捉えられるのだろうか。理性と本能、精神と肉体とは基本的に精神の方に重きが置かれてきた。だがそうした見方は再考される時に来ている。もっと私たちは自らの感情や肉体の声に耳を傾けるべきなのだ。
本書の解説はこの問題と、人類学との関係性についてこのように書いている。


「『知識』はモノを固定したり説明したりするときに用いられるが『知恵』は世界の中に飛び込み、そこで起きていることにさらされる危険を冒すことから開かれる。今日、世界は知識に大きく傾いている。人類学の仕事とは、知識に、経験と想像力の溶け合った知恵を調和させるのとである。『教育のない』『無知と片付けられてしまう』人たちからこれまで積極的に学ぼうとしてきた点で、人類学は特別である」


人類学の思考法とは、固定概念にとらわれず、むしろそうした「常識」こそ問い続けるものだ。そして、あらゆる人間の文化および精神活動を統合的に捉え、かつ知的にそれらの意味を変容していく現実の中で再構築していくことだ。それは人々と共に行われていく知的活動である。そこに、私は社会福祉にも似た性質を感じる。何人も排除されない構造はそのままケアにも通じていく。


「人類学は、人間の生の多様性をカタログ化するのではなくて、人間の生そのものと会話する。すべての参加者が絶えず変容にさらされるような会話に加わり続けることが『他者を真剣に受け取る』ことになる」


変容と対話。
そして、人間の生との対話とはどのようなことなのだろうか。その先にある他者を真剣に受け取るということは、どんなことなのか。
私はここに、能動的な活動としての知性の在り方を見る。それは象牙の塔に閉じ込められた知性というものではなく、人々の間に入り込み、その中で変容していく知の姿だ。私はこうした知性こそが統合的なのであり、専門知というものもそうした土壌の元で本来の意味と価値を持つのだと思う。そして、これからの時代はそのような包括的、全人的な理解というものが必要になっていくだろう。

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