語るべき存在として
ライフストーリー・レビューという言葉を知っているだろうか?
これは「重要ではあるがあまり語られてこなかった過去について振り返り、言語化をする方法」を指す。また過去とは誰かに向かって語られるもの、つまり「共に振り返る」ものである。
ここで語られる過去およびエピソード、そしてそこから現在の自分へと繋がるライフストーリーとは、その時の気持ちや語り手によって変化する。よって、ライフストーリーとは一つではない。
またライフストーリーの中には「語られる過去」と「ほとんど語られることのない過去」とがある。このうち、「語られない過去」とは自然災害や慢性病、身体障害、依存症、死別、犯罪被害などがある。こうした出来事は現在に繋がるライフストーリーを分断し、その一貫性を喪わせる。曖昧なまま、次の日常に合わせた新たなストーリーが始まるのだ。そうしたことが起きるのは、過去に描いたライフストーリーと大きく離れているからだ。またセクシャルマイノリティーのように、思春期に気がつきその後の人生を大きく変えるものもある。またこれはネガティヴなものばかりでなく、海外留学など一見ポジティヴに思えるものも含まれる。
ライフストーリーの分断部分を回復させるためには、こうした体験を誰かに向けて、援助を受けながら語る必要がある。分断部分はそもそも「語ることができない」部分であり、それがどのような体験であるのか分からず、他者に伝えることもできない。こうした「語られない語り」を受け止め、言語化を促してくれる存在が必要であるのだ。
だが現実にはそうした聴き手はほぼいない。ライフストーリーの分断部分というのは、誰にも語られず、それゆえに曖昧な経験として残されいく。こうした経験は学ばられることもなく、むしろ忌避されて関連した話を聞くことすら難しくなる。こうした過去について、どう話したら良いかについてまとめたのが「ライフストーリー・レビュー」である。
ライフストーリー・レビューの定義は「これまであまり語られてこなかった過去の経験について、他者の協力を得ながら光を当て、言語化を行い、その経験の意味を考えること」である。
具体的なイメージとしては1時間ほどの時間を取って、語り手1人に対し、3人まで程度の聴き手で対話を行なうというものである。原則として過去を扱い、時系列を整えることが重要である。何が起き、次に何が起きて、結果どうなったのか、という時間の流れを重視する。その際の感情は簡単に触れる程度にし、深入りはしない。もちろん感情を無視するわけではないが、エピソードの繋がりと明確化が重要であるので感情は積極的に扱わない。
また誰に語るのかという点も重要で、例えば語り手が病気体験について語ろうとする際はその聴き手も同じか、あるいはそれに近い体験を持つ聴き手である方が望ましい。
さらに話している途中でそれまでのストーリーの矛盾や、忘れていたストーリーにも気がつく時がある。それをライフストーリーに取り込もうとすると、ストーリー全体の意味が変わってくる。例えば「病気によって自分の人生は悲惨であった」というものから、「病気になったことで、生きていることや周囲の人への感謝を改めて感じることができた」など、ストーリーの変化は過去の出来事の「意味づけ」が変わるということでもある。
これまで語られてきたストーリーを「ドミナント・ストーリー」と呼び、新たに現れてきたストーリーを「オルタナティヴ・ストーリー」と呼ぶ。このようにして、過去を語ることで以下のようなことが起きる。
経験の時系列を整えることにより、何がどのような順番で起きたのか明確になる。これにより、ストーリーの矛盾点、不整合な部分が見えてくる。そうした部分をストーリーに取り込むことによって、オルタナティヴ・ストーリーが出てくる可能性がある。過去の出来事が自分にどのような影響を与えているのかということへの理解が進む。
また、こうした過去のストーリーが変化することは、未来のストーリーも同時に変化する。ライフストーリー・レビューは過去を扱うが、その結果は現在と未来にも影響をあたえるのだ。
本論の筆者である高松は「自己は物語の形式で存在する」という言葉を引用する。語られないストーリーの分断部分で悩んでいる人は多いが、実際にカウンセリングルームへ来る人は多くない。「語られないものは、心の中で曖昧化しその後の人生を不安定にさせる」。
こうした「語れる場」と「時間」を持てない私たちは、目の前のことで精一杯であり、過去のことなど無視せざるを得ない。
そのためには働き方をまず変えるべきであり、日常的に人と人とが共に語り合う場が必要である。そして、私たちはもっと語るべきである。
「私たちはもっと語るべき存在」である。
このことは、現代をめぐる環境と思想というものが、いかにそれを蔑ろにしているかの証左ではないか?
人は生物としての側面ではなく、心理社会的な側面をも有している。後者はヒューマニズムともいうべき、生物としてとはまた異なる次元での「有機的な」側面である。だがこのことはあまり意識されないままでいる。それは高松も指摘するように現代の働き方もそうだし、個人的に見ればそれ以上にこの社会に充満する意識そのものに問題があるようにも思える。
例えば近代以降の社会について考えるとき、個人主義の勃興と啓蒙主義による時代の切り拓きは極めて重要な視点であると最近思っている。大切なのはこれらの善悪や優劣ではなく、そうしたものとの相互作用において、私たちは果たして「幸福に」なれたのか?という視座である。
資本主義、合理主義、社会と人の効率化とそれらを支える科学主義というものは、確かに社会を豊かにはした。だが、難解なことにそれは決して幸福の絶対条件にはなり得ず、必要条件であるのかすらも、今では疑わしい。統計上は先進国であるこの国の10代から30代の死因第1位は自殺であり、統合失調症患者への病床数は主要先進国でもトップクラスであり、年間の孤独死は約3万人にも登る(自殺者がここ数年で3万人を切ったことは有名であるが……)。
こうしたある種の機械的非人間的な環境の中では、それ自体として曖昧で自律した存在ではない「語られぬ物語」を許容することができない。
だがフロイトの無意識の発見が示唆するように、私たちが存在として「生かされている部分」のほとんどは目には見えない、つまり普段語られない領域にこそある。それこそが人間的な領域ではないか。そこについて「語らなければならない」のは、人間的な存在から隔たったところからの回帰を意味する。これは単なる精神病理上の次元で理解されるべきものではなく、私たちの「生き方」と、それに対する「眼差し」の問題であり。私たちは独りでは生き切ることなど到底できず、他者との相互作用によって存在することができる。ゆえに、私たち一人一人の持ちうる普遍的な物語(ストーリー)とは、無条件・無償の「赦し、肯定、共感」であると思う。それなしに、物語への意味づけなど望むべくもない。人が人として存在するためには、こうした次元での成立と作用がなければならない。現代とは、そうした余地と余裕と、曖昧さを許さないところがある。それと精神失調は明確な相関があるのではないかと個人的には思うのだ。真に精神病理的なのはこうした社会構造そのものであると私は思う。
私たちはみな、「人間として」生きるべきであるし、そのためには「語り」が必要であるのだ。
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