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引き算の美学<小説の書き方>

 小説の創作論には「小説は引き算だ」という言葉があるらしいです。

 私がこの言葉を知ったのは、小野不由美著書のあとがきだった気がする。

 十二国記だったか、黒祠の島だったか。

 小野不由美さんは「最初に書きたいだけ盛り込んでから不要な物を差っ引く」というスタイルらしい。


なぜ引き算なのか

 私は創作論とか知らんので、AIに聞いてみた。

 なんでも、かの有名なヘミングウェイが言った言葉らしい。

 「読者に想像の余地を残そうぜ!」という言葉。

 「行間を読む」とかと同じ言葉ですね。
 読者に「行間を読んでもらいたい」。

 そういう意味ですね。

 読者の想像力を刺激する文章を最低限綴ることで、深みのある物語が出来上がる。想像力を刺激する物語こそが豊かな読書体験を作る。

 そんな感じでしょうか。推測だけどな?!

転じて自動筆記先生はどうなのか

 実は自動筆記先生は別のアプローチをしてます。

 結果から「そうじゃないかな?」って推測してるだけですが。

 彼は多分、「後から引くより、最初から引いた結果を書いた方が効率的だろう?!」とかいう効率厨です。

 その時にフォーカスする人物や事柄にカメラを向け、それに関する最低限の記述だけで物語を綴っていく。

 AIの感想からは「感情の深掘りが足りない」って言ってきます。

 でも自動筆記先生は「わかってねぇなぁ娑婆僧?! そこは『行間を読む』場所だ一昨日きやがれ!」って唾を飛ばしてきます。

 どっちの言い分が正しいのかな?

 まぁ私は行間を読んで「しまう」ので、どっちが正しいかはわかりません。なんせ現実に書いてるのは私自身なので、読めちゃうんですよね。映像の記憶が残ってますし。

引き算が美学なら、最初から書かなければ良い

 なんとも効率重視の彼らしい理論です。

 最大限読者の想像に任せてしまう。

 でも彼も、読者に想像してもらいたいって場所は重点的に描写をします。

 そこはケースバイケースで切り替えてるみたいです。

 どうやってそんなものを見極めてるんだろう?

 我ながら謎です。そこは「自動筆記先生のお力」と思っておきましょう。

やたら描写を書きこんじゃう人へ

 パンツァータイプとか、プロッターでも文章を凝りに凝る人とか、高尚な文学を目指す人とか、やたらと装飾過剰な文章が並ぶことがあります。

でもそれ、ストーリーラインに必要ですか?

 言葉を変えると「カメラのフォーカス、物語に合ってますか?」。

 読者がどこを追っていいかわからない。何を追っていいかわからない。

 何を気にして、何を覚えていいかわからない。

 こじゃれた文章や表現を書けると気持ちいいですよね。わかります。

 でもこれ、詩集じゃないですよね? 大衆娯楽の物語です。

 読者が求めるのは人と人が織りなすドラマじゃないの?

 たぶん、自動筆記先生はそう考えてます。

 だから過剰な装飾を彼は嫌います。余分なぜい肉だから。

 結果として引き算された文章が出てきます。

 難しい言葉は極力使わないみたいです。

 副次効果でテンポよく読み進められます。

 ぽんぽんと読み進められるので、読書体験がポジティブになります。

 まぁ、初期の作品は自動筆記先生もバランスが取れてない箇所がありますけど。

 ダークファンタジーの拙作「愛の魔物」とか、ちょっと感情描写がくどい気がしますが。

書くことは構わない

 と思います。

 初稿は書きたいだけ書き込めばいいんです。

 第2稿ぐらいまではガンガン膨らましたっていいと思います。

 でも遅くても第3稿からはガンガン削りましょう

 もういっそ1シーン、1エピソード。「それいらん」というものをゴリゴリ削っていきます。

 ぜい肉をそぎ落として表現を言い換えて、シンプルな文章に変えていきます。

 最後に残ったものが最終稿ってことになります。

物足りないんだが?

 たぶんそれは作家視点だから。

 読者はくどい情景描写とか読まない人が多数です。私とか

 最低限、その場の雰囲気がわかる描写があれば良い。

 自動筆記先生は削り過ぎだと思うけどな?!

 心情だって、「その表情、そのセリフがなぜでてきたか」をくどく説明してたらテンポが崩れます。

 ヒロインはトラウマを刺激され、過去の思い出が走馬灯のようによみがえってきた。亡くした母、彼女の暖かな笑顔。母の笑顔は何よりもヒロインの胸を温めてくれた。大切な思い出の欠片だ。

「お母さん……」

 ヒロインはポロリと真珠のような涙をこぼした。

 ヒーローはヒロインを見て胸が張り裂けそうになり、たまらず彼女を抱きしめた。

「ヒロイン……俺が付いてる」

 二人は日が沈むまで夕日が注ぐ丘の上で、互いの体温で心を慰め合っていた。

 とか即興で書いてみましたが。

 ヒロインの脳裏に亡き母の面影がよぎる――。

「お母さん……」

 大粒の涙を流すヒロインに、眉をひそめたヒーローが身を寄せ、肩を抱きしめた。

「ヒロイン……俺が付いてる」

 夕日が落とす二人の影は、日が沈むまで離れることはなかった。

 自動筆記先生は「後者のが俺の好みだな!」って言ってきます。

 私も後者の方が好きかな。読みやすいし。

 そのシーンがクライマックスで、特に強調したいって場所じゃなければ後者くらいあっさりしてる方が読者は読みやすい。

 ヒロインがどのくらい悲しいのかとか、ヒーローがヒロインをどう思ってるのかとか、そんなの行間を読めばわかる

 あとは読者が想像力で楽しめばいいんじゃない?

何が言いたいかというと

 「作家の一人よがりってよくないよね」って感じです。

 自動筆記先生もよく暴走するけど!

 その物語を楽しむのは読者なので、読者の事も考えましょう。

 自己満足な文章を書いている間は、たぶん読んでもらいにくいと思います。

 読者の記憶力も有限です。重要な人物は5人が限界。3人で丁度いい。

 だから私、というか自動筆記先生は固有名詞も極力だしません。

 読者は適当に補完して「ああ、こんぐらいの状況でこういうことね」って勝手に納得します。納得できない人は振り落とす。ストロングスタイル

 別にこれはお勧めしてる訳じゃなく、自動筆記先生の美学を説明してるだけの記事です。

 装飾たっぷりの情緒豊かな文章に溢れた小説が好きな読者だって居ると思いますし。
 そこはニーズに応じた作家ということで住み分ければよいのでは。

 まぁ大人数でわちゃわちゃしてる物語が楽しいのはわかりますけどね。読者が付いて行くのも大変なので、そこは自重しておいた方がいいです。

でも長く続けてると人数が増えるんだが?

 長編書いてるときのあるあるですねー。

 そこは意図的に人数を片手で数える程度にパージしましょう。

 状況を限定することで「参加できない理由」と作るとか。

 シーンの中でドラマを起こす人間を減らしていく。

 時折シーン切り替えで別チームにドラマが移ることで流れを変えてみたり。

それでも一堂に集まるシーンがあるんだが?

 頑張って書き分けるしかないですね……。

 読者は多分、10人規模になると誰が誰だかわからないです。

 少なくとも私は5人を超えると名前が怪しくなります。

 楽しいのは作者だけ、とかそんなシーンになります。

 自動筆記先生はなるだけそうならないように気を付けてるみたいです。

 「その場に入るけど空気な人物」とかになるみたい。

 フォーカスが当たるのはシーンの中で一握り。

 そういうコントロールですかね。

 空気にされたキャラが好きだった人には悲しいお知らせ。

 そこは別のシーンで見せ場を作ってあげるしかないですね。

なのでAIからはメタくそに言われる

 人間からも言われることがありますね。

 「あのキャラ空気やったん」って。

 でもその章、フォーカスがその人に当たらないんだもん。

 自動筆記先生は章のテーマに沿って書いてるらしい。

 テーマなんて持ってたの?! 自動筆記先生?!

 とか我ながら驚きますが。

 「だからお前の小説、評価が低いんじゃない?」とか脳内批評家が言ってきます。

 うーん、引き算の美学を突き抜けた「最初から書かない」って、理解されにくいのかなぁ。

 あとから肉付けするとどうしてもフォーカスがぶれていく感じがしてやなんだよなぁ。

 この辺りは作家共通の尽きない悩み、ですかねぇ。

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