短編小説「ゴーストアローン」
栄養ドリンクとチョコボールと履歴書が入ったレジ袋を持って、わたしはコンビニを後にした。ゆっくりと歩き出し、街灯も疎らな夜の道を歩く。袋を持つ手とは反対の手をパーカーのポケットに突っ込み、スマートフォンを取り出す。時刻は午後十一時二十二分だった。
大学四年生になって三ヶ月近くが経ち、周囲の学生たちは段々と内定を決める、もしくはインターンを始めるなどして、着々と自分たちの今後を見据えていた。そんな中、わたしだけが特にこれといった努力をしていなかった。卒業に必要な単位は卒業論文以外にすべて取ってしまったから、わざわざ大学に足を運ぶ必要もなくなっていた。今日も昼過ぎに起きて、夕方まで無気力に過ごし、十時間以上寝たはずなのにまた眠気が襲ってきて、気付いたら夜の十時前だった。
それでも、周囲と同じように努力をしていないと、どうしても心細い気持ちになる。そんな気を紛らわそうと、試しに履歴書なんて買ってみた。ただ、今後の自分の運気はすべてチョコボールの結果次第だ。金のエンゼルが出たら頑張る。所詮そんなものだった。
今夜は満月だった。しかもスーパームーンというらしく、一段と月明かりが濃い。わたしは橋の途中で立ち止まり、欄干にもたれて満月に向けてスマートフォンのカメラを向けた。シャッターを切る音が夜の沈黙に鳴る。けれども、上手くその光を捉えきれず、肉眼で見るよりも美しさは半減されてしまった。
その時だった。
「良い絵は撮れた?」
突然、男に声をかけられた。
隣を振り向くと、大きな白い布を抱えた男が立っていた。歳はわたしと同じくらいに見える。少し切れ長の目に無精ひげを生やし、白いシャツにジーパンというラフなスタイルだ。深夜に見知らぬ男から声をかけられて警戒しないわけもなく、わたしはゆっくりと後ずさる。こういう時、体は思った以上に言うことを聞いてくれない。わたしの動揺を察してか、男は大袈裟に手を振って見せて弁解した。
「待って、あやしい奴じゃないから。俺は○○大学の四年生で映研所属だよ。ほら、学生証」
そう言って財布の中からうちの大学の学生証を取り出す。確かに、本物だ。ただ、それでも警戒心を解くことは出来なかった。
「なんですか」
「君、うちの学生でしょ。去年同じ授業を受けてた。誰も取らないような、退屈でつまらない授業で、履修してるのは二十人もいないのに、毎回講義に出てたのは俺と君を含めて四人だけだった。しかも女子は君だけだったから、よく覚えてる」
彼は最後に授業の名前を教えてくれた。確かに、わたしも受けていた。グループワークもあったから、数回は顔を見合せたかもしれない。それに、履修した授業はすべてかかさず出ている。毎回出ていたことを知っている様子からして、どうやら彼の言葉に嘘はないらしい。わたしは、必要最低限の警戒心を残しつつ、彼の話を少し聞いてみることにした。
「それで、わたしに何か用ですか」
「いや、特に何もないよ」
それを聞いて、わたしは、「は」と「え」の中間くらいにある声をこぼした。先ほどまでの警戒心を一段階強める。しかし、今度は彼も気にせず話を続けた。
「印象には残っていたから、今見かけた時、声をかけてみたくなったんだ」
「やばいですね」
反射的にそう言葉を漏らしていた。彼は無精ひげに手を添えて、擦りながら困ったように「よく言われる」と言った。
夜風が舞って、彼が持っていた白い布の端が揺れる。きっと、聞いてあげた方が良いんだろうな、と考えつつ尋ねる。
「その布は何に使うんですか」
よくぞ聞いてくれた、と目の奥の輝きが口よりも先に答えてくれた。
「これから映研の仲間と撮影に行くんだ。そこで使うんだよ」
「こんな時間に、わざわざ?」
「こんな時間だからだよ。もう四年生で学生最後の年だから、その記念PVでも作ろうって話になってるんだ」
すると、おもむろに彼は白い布を頭から被り、両手を広げた。ちょうど顔の部分には、マジックペンで描かれた丸い目と口があった。
「おばけ」
「あたり」
とてもチープで、当たり障りのないおばけの仮装だった。
「俺たちは社会に出て、人間関係とかに巻き込まれながら生きていく。もしかすると、時には感情を押し殺して、辛い場面を切り抜けなきゃいけないかもしれない。いや、むしろそんな毎日ばかりかもしれない。まるで生きながら死んでいるみたいに。でも俺らは、その中でもいつか誰かに認められるよう、限りなく愉快なおばけであり続けたい。そういうコンセプトのPVなんだ」
きっと、彼は今、真面目な話をしている。でも、へんてこな布を被ったまま言われても説得力がなくて、わたしは思わず笑いそうになってしまう。
「生きながら死んでいるって、それはおばけじゃなくて、ゾンビじゃないですか?」
わたしがそう言うと、いくばくかの沈黙を挟み、彼は布を脱ぎ捨て「確かに」と呟いた。可笑しくてつい軽く噴き出してしまう。彼もつられて笑う。また、無精ひげに手を添えていた。
この人も同じ四年生で、でも他の学生とは少し違った形で、自分自身の在り方を見つめている。わたしはそっと胸をなでおろす。
自分の中のどこかで、大学卒業がすべての終わりだと決めつけていた。
でも本当は、少し投げやりになっていただけで、たぶん、無気力な自分を演じることで、その孤独に寄り掛かって楽をしたいだけだったのかもしれない。ちょうどこんな夜の日は、特にそう思う。ここ最近、ずっとそんな調子だった。今なら、夜に響く川のせせらぎだって、すっと耳に入ってくる。こんなに余裕な気持ちになれたのは久しぶりだった。
「じゃあ、そろそろ行くね」
出し抜けに彼が言った。
「突然声をかけてごめんね。もしまた学校で会うことがあれば、その時はよろしく」
「会うことがあれば、ですけどね」
わたしが答えると、彼は「それじゃ」と告げて小走りにその場を後にした。その後ろ姿が、闇の向こうへとみるみる溶けていく。そして、ついにその白い布も、もう見えなくなってしまった。
彼を見送った後、わたしは持っていたレジ袋からチョコボールを取り出した。包装を取り、くちばしを開ける。そこに天使の姿はなかった。
でも、わたしの気分は不思議と明るさを保っていた。
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