「顔出し」の価値
昔、テレビに自分の顔が出せるのは名誉だったように思う。
一番に思い出すのは、高校生の頃、30年くらい前のことだ。「ねるとん紅鯨団(べにくじらだん)」という、公開合コンのようなテレビ番組があって、友達のお兄さんの友達の友達というような、要するに他人というほどの遠い関係の人が出演するというのを、友達が得意げに話していた覚えがある。
「本当は彼女がいるんだけど、タカさん(その番組で素人をいじる「とんねるず」の石橋貴明)に会いたいから、彼女いないって嘘ついて出演したんだって」
という情報からイメージした通りの、メインストリーム感はあるけれどちょっと軽そうな男の人だったのを覚えている。
とはいっても、特に突っ込みどころがなければ、「あー出ていたね」程度しか話題にすることはない。が、当時「知り合いがテレビに出る」といえば、それはもう大騒ぎするようなことで、そう聞いていたのに「見なかった」となれば友情関係にヒビが入ると思ったので、「出ていたね」と言うためだけに、その番組を見たのを覚えている。
(余談だが、私は、むしろ、その番組が始まる前に同じ枠で放送していた「上海紅鯨団が行く」という、片岡鶴太郎が司会している番組が好きだった。突拍子もない、視聴率が取れないようなことばかりやっていて、だからこそ「ねるとん紅鯨団」という番組に変わってしてしまったのだろうけれど。その番組では、中川比佐子という美しいモデルさんが「おいしい料理をごちそうします」と、キャベツ丸ごとコンソメで煮ただけのものを、ケーキのようにカットして盛り付けて食べていたのが一番面白かったし、よく覚えているし、そちらの番組の方がよほど私は好きだった。)
親戚関係でも、印象に残っていることがある。
就職して、毎日ブラックな働き方をしていた頃だ。年賀状のやりとりくらいしかしていなかった親戚から、平日の夜に帰宅した時、留守電が入っていたことがある。まだ、まぁまぁ固定電話を使っていた時代だ。最初に叔父の名前を聞いて、「誰か死んだ?」と驚いて続きを聞いてみると…
「急だけど、今日の夜、〇〇がテレビに出るので、よかったら見て」と入っていた。
〇〇というのは、大学を出た後、就職した会社をすぐに辞めて自由に旅をしながら暮らしているいとこだった。そんな我が子がテレビに映るというのは、よほど嬉しかったのだろう。BSの番組の中で少し取り上げられたようだけれど、それでも、テレビに取り上げられるということは、一般人にとって「世間に認められた」という感覚をもたせるものだった気がする。留守電を聞いた時にはすでに放送時間が過ぎていたので、結局どのくらい映ったのかはわからないけれど。
つまり、テレビに顔が出るということは、「誇らしいこと」「付き合いが薄い親戚にまで自慢できること」「マウントとれること」だったのだ。
が、現代は逆になっているような気がする。
素人がテレビに取り上げられたからといって、必ずしもいい意味ではない場合も多い。撮影する時はどうかわからないが、実際の番組では「ちょっと変な人」という立ち位置で取り上げて揶揄するようなナレーションを付けたりスタジオの芸人にいじらせたりすることもある。素人であってもSNSで叩かれる恐れもある。
「うっせえわ」が大ヒットしたadoに代表されるような、「顔出ししないアーチスト」は特別な存在ではなく、今や「長袖か半袖かの違い」くらい一般的になってきている気がする。そして、顔をさらさずに自分の才能が認められるというのは、羨ましい。「容姿など関係ないほどの才能がある」、というように思えるからだ。今は、「顔出ししないでもテレビに出ることができること」こそ価値があることのように思う。
そして、「顔出し」する場合でも、その「容姿」に関して、考え方が変わってきたように思う。
昔の世の中では、顔は、出したとたんに美醜ランキングに自動的に参加させられるような世の中だった気がする。だからこそ、メディアに出演する人も、できるだけランキング上位になれるように、バッチリメイクをして、メガネはコンタクトにして、服装も考えて~と、「最高の容姿」となるようにしていた気がする。だから、グループの中の一員として「メガネ担当」的にメガネをかけている人はいても、女性のソロアーチストでメガネ姿の人は見た記憶がない。
が、鬼滅の刃遊郭編のテーマソング「残響散歌」を歌っているAimerは、メガネ姿で歌っている。ひと昔前なら、テレビで歌う時はコンタクトにしていたのではないか?グループの中に一人いるようなメガネキャラとしてではなく、「オフの気楽さ」を表すためにバラエティや密着取材でメガネ姿を見せるというのではなく、ソロの女性アーチストが常時メガネ姿でテレビに出ることが容認された社会になってきたことに驚き、面白いと思った。
さらに、最近、「顔出しナシの歌手オーディション」というのも見かけた。指定された会場に行って歌を録音するようなので、その会場にいる係の人には顔を見られることにはなりそうだけれど、書類やデータとして審査されることはないというのは斬新だと思う。顔出しNGもここまで来たか、という感じだ。「まず作品で有名になって、だからこそ顔出ししなくていい」という世の中から、「最初から顔出ししなくていい」という世の中に。容姿を見た上で「差別しない」というより、最初から見ることがなければ、知らないものに関して差別しようがない、ということか?
そのオーディション出身者が素晴らしい活躍をするかどうか、までが1セットかとは思うが、「まずは写真選考」というイメージからは隔世の感がある。顔出しナシのオーディションで選ばれた人が、顔出ししないままビッグになっていく~これからは、そんな世の中になっていくのかもしれない。