マイノリティ的文学活動について思う
このところ(といっても数年前からだが)、出版社を通さず自力で出版、あるいは自分で出版社(らしきもの)を立ち上げるケースがいくつか見受けられる。
同人活動ではない。あくまでプロ活動の一環としてだ。
電子書籍はじめ、昔は存在していなかったタイプの様々なサービスが増えていて、そういったことを始める敷居が低くなってきているのだろう。
そのうちのいくつかは、既存の出版社で思うように活動できなかった人たち、あるいはなにかしらの不満がある人たちが、「チャンスにめぐまれていないだけで才能のある書き手はいるんだ」とそういうようなスタンスなりを前面に押し出している。そのためにこれを立ち上げたんだ、と。
曲解されたくないので断っておくが、これはいい流れだと思っている。
既存の出版社のあり方がベストであるということはないだろうし、もちろん万能であるわけもない。いろいろな制限があったり、事情があったりもするだろうという想像もできる。
具体名を挙げてしまってアレだが、『君の膵臓をたべたい』という作品が現在ベストセラーになっている。もはや大ベストセラーの域に入りはじめている。
この作品は、しかしどの出版社の新人賞にも落選していたという。
ずっと見向きもされなかった、と作者が語っている。
正規のルートではどの出版社も拾わなかった、どこも見向きもしなかった作品が、業を煮やした作者が無料公開したことから火がついて、いまや売れまくっているというこの事実を、出版業界は真摯に受けとめる必要があるのではないかと思っている。
少し話がそれてきたが、だからぼくの考えは、これまでの出版の常識にこだわらず個人が自分の力で動くのは"あり"だろう、ということだ。
いろいろな可能性がもっと広がるべきだ。
むしろ、いずれ出版界は、書き手が個々に好きなように自力で作品を公開して、出版社は、星の数ほど存在するその作品群の中から会社として出版したい作品をチョイスする、という形式が主流になっていってもおかしくない。
話を戻そう。
違和感があるのは、いわばマイノリティな人間のための文学活動、ある意味で、脱・出版社、反・出版社的な動きをし始めているこういう人たちが集めているメンバーが、内輪の人間といおうか、仲の良い人たちというか、もともと縁のある人たちばかりであるような気がしてくる点なのである。少なくとも、そのように見える。
さらには、優れた才能のあるメンバーが集まった、と謳っていても、その「才能の判定」をしているのは、その活動の中心になっている人物の個人的判断にすぎない。
それはそうなってしまうだろう、というのは理解できる。
たぶん、ぼくが事を起こしてもそうなる。
しかし、それでは、結局、変わらないではないか。既存の出版社がやっていることと。規模が違うだけだ。
突き詰めればまったく同じところに行き着く。何が違うのかぼくにはわからない。その活動がもっと大きく育てば「現在のものとまったく同じもの」ができあがるに相違ない。
マイノリティな人間のための、というより、マイノリティな人々の中から選民している、というのが実際だ。
もっとも、そういうこと自体が悪いと言いたいわけではない。
仲の良い、あるいは理解し合える人々が集まって、良い作品(と自分たちが誇りをもって言える)を作る、というのはすばらしいことだ。
ただそれは、本当の意味でのマイノリティ文学活動(おかしな言い方だが)、脱・出版社、反・出版社ではないですよね、ということである。
「謳い」がなければもちろんまったく気にならないのだが。
そういった方向性を前面に押し出しているので、そのあたりにどうも違和感を感じているのだった。
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