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鴻巣友季子と桜庭一樹の誤読問題について考えた
ほかにいろいろ書きたい記事はあるのですが、旬の話題なのでこの件について少し触れます。
簡単に流れを書くと、
①鴻巣友季子(以下敬称略)が朝日新聞文芸時評に書評を発表
②それに対し、ひどい誤読があると著者の桜庭一樹(以下敬称略)が抗議
この作品は私小説であるため、実在の人物に風評被害が及ぶことを懸念されるので、記事を訂正してもらいたいと要求
③作品をどう読もうが自由であるということで鴻巣友季子は訂正要求を拒否
さて。
まず言いますが、ぼくは基本的に書き手の側の味方です。自分も書き手であり、作品を書くというのがどういうことかはよくわかっているので。
ので、そういう色眼鏡はかかるかもしれません……と宣言したうえで、できるだけ客観的に見たぼくの考えを述べます。
この問題に対し、作品は世に出した時点で作者の手を離れるものであり、読者がそれをどう読もうが勝手である、という言い分を多くの人が言われているようです。鴻巣友季子自身もしきりにそれを主張しているようですね。
一般論としてそれは正しいとぼくも思います。
一般論として。
一般読者である場合は。
著者がなにも言っていないうちは。
しかし、評者がプロであり、そして著者が直接指摘しているのであれば、話は変わってくるはずです。
一般読者は作品を自由気ままに読んでいいものですが、はたしてプロとして評を発表する人間もそれでいいものでしょうか?
ぼくは、少なくともプロの書評家と名乗る人間は一般読者以上の深い読み方と責任のある評をしてほしいものだと常々から思っております。
いえ、プロの書評家でももちろん自己流の解釈をすることは常識でしょう。それが悪いとは思いません。
が、それも、著者本人が「誤読」の指摘をしてくるまでですよね。
著者本人が誤読だと言っているのに、誤読ではないと評者が主張し続けるのは……ありえないのひとことではないでしょうか?
作品をどう読んでも自由とかそういう話ではありませんよね。著者本人が言っているのだから。
たとえば、ジ○リ映画を見て、これは死者の話だ、と解釈するとします。それは自由です。それに対して、宮○駿が、いや全然違うよ、と否定したとします。それでも、いやこれは死者の話なのだ、とあくまで主張する。そういうことですよね。これはもう「自由な解釈」とかそういうことではありません。ただの間違いです。
ここで主張するとするならば、「間違えた解釈」ではなく、「なぜ間違えたのかというその理由、誤読させた表現の甘さに対する指摘」でありましょう。
あくまで誤読を認めないという頑なな態度ではなく、「ごめんなさい読み間違えましたね。でも書き方が少し誤解させる感じなのではないでしょうか?」などと折れれば、確かに書き方が悪かったかも、という応じ方になり、相互にごめんなさいで、たったそれだけでおさまる話ではないのかなと思うのですが……。
そして実は「書き方」に対しては、桜庭一樹はみずからしょっぱなに、「わたしの書き方がわかりづらかったのかもしれず、その場合は申しわけありません。」と述べています(原文まま)。
これをもって、著者からの誠意と反省は最初に示されているものとぼくは受け取ります。
またここで生じている誤読は、実在の人物の風評被害につながりうるものであり、だから桜庭一樹は記事の訂正要求をしたわけですが、正直、これを頑なに突っぱねて拒否する理由がまったくわかりません。
実在の人物が傷ついてもいい、というわけでしょうか?
ぼくが上に書いたプロは「責任のある評」をするべき、という「責任」とはこれです。
公に世に放つ自分の評が社会的にどういう影響をもつかということは考えるべきで、「デマが広がる懸念がある」という著者からの直訴を聞いてもなお、読者は自由に読めばいいのだ、と投げっぱなしにするのはいかがなものかと思わざるをえません。
もはやこれは誤読問題ではなく、「他人に被害が及ぶ」ことに対して人としてどう誠意ある対応するか、という話です。
みなさんは、いかが思われますか?
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