【感想】『あなたの言葉を』
はじめに
辻村さんが好きである。
それはもう、運命的に好きである。(参照)
新刊が出たと聞けば、できるだけ早く買いに行こうと思う。
今回は、『あなたの言葉を』を読んだ。
初出が小学生向けの新聞である通り、今、子どもである人へ向けたメッセージばかり。
でも、「かつて子どもだった」私にもよくわかる。
そして、胸の奥底にいる子どもの私にも刺さった。
そんなことをつらつら書こうと思う。
なお、ここから先はネタバレ、というか内容に触れていくつもりなのでこれから読む人はご注意を。
もしくは、ただの自分語りかもしれない。
苦手と嫌い、好き
「「苦手」と「嫌い」」などでも辻村さんが触れているように、「苦手」と「嫌い」は一緒くたに語れるものではない。
苦手であっても好きなことは往々にある。
私はよく嫌いな食べ物はない、という。でもよくよく考えればあまり好んで食べないものもあることに近年気づいた。しかしそれは食べることはできるし、積極的に選ばないだけでわざわざ人に伝えるものでもない。(強いて言えば苦手、のニュアンスでいうことはある。)
また、教科でいえば英語が特に苦手だ。学生のころから、そのまま今になっても。それでも嫌いにはなれない。嫌いといって切り捨てるには、あまりにももったいない。分からなかった長文が分かるようになった喜びを、私は知ってしまったから。好きというには重なった苦手意識が厚いが、それでも嫌いではないのだ。
一方で、国語は好きだったものの、それが得意になるまでは時間がかかった。中学生のころは数学の方が点数が良かった。国語は好きであっても得意ではないのであった。しかしそれがやがて国語の解き方が分かるようになったら、安定して点数が取れるようになった。国語が好き、の根幹としては読書が好き、に通じる。色々な文章が読めるから国語のテストが楽しみだっただけといえば否定はできない。
余談ではあるが、現状人生最後の試験ことセンター試験においては、一番得点「率」が高かったのが物理基礎である。次点が国語。物理基礎も英語も、最後に伸ばしたのでその理解できた分は好きになれたように思う。
そう思うと自分の中で明確に「嫌い」であることが滅多にない。大概「苦手」に留まっている。
社会人になってからの私はSEとして生計を立てている。しかし、元からパソコンが得意だったわけでも、プログラミングが好きだったわけでもない。むしろ苦手意識ばかりが先行していた。それでも、それまでの人生で触れることが少なかったゆえの苦手意識であり、実際に働き始めて学んでいくうちにその面白さに気づけた。つまりは好きを仕事にしたわけではないが、仕事にしたことは存外嫌いではなかったのだ。前述したように英語が苦手なのでプログラミング中のアルファベットの群れに苦戦することがあるにはあるが、嫌いではないのでなんとかなっている。これも「苦手ではないけど好き」になる可能性がある、の一種だろう。
練習
練習は嫌いだ。
前述したことと矛盾するかもしれないが、数少ない嫌いなことが練習である。
もとは昔習っていたピアノの練習に起因し、強制されるようになってから「練習する」という行為自体が嫌になった。
大学で始めたジャグリングも「これは練習では?」と気づいた瞬間、嫌になった。それまでは「ジャグリングしよー」と練習している意識がなかったがゆえに。最近は練習と思わなくなったので、たまにジャグリングしている。
練習と思ってしまえばなんでも嫌に思うが、たしかに「~したい」と思えば苦ではない。練習とは繰り返し「しなければならない」行動だから。
楽しんで行うのであれば、なにごとも楽しい。何度でもできる。続けられる。困難に当たったとしても、乗り越えられる。その繰り返しをはたから見たら「練習」に当たるのかもしれない。
この文章も書きたいから書いている。文章を書く練習ががてら、読んだ本全部について感想を書こうと思った時期もあったが、できなかったのでやっていない。
140字ではおさまらない感想を、ここに綴る。
友達
今も定期的に会える友達がいる。たまに連絡を取れる友達がいる。一緒に遊んでくれる友達がいる。それをありがたいなあと常々思う。
決して友達が多い方ではないうえに、中々自分から連絡をしようともしない。卒業とともに自然と疎遠になる友達が多い。
友達の結婚式に呼ばれた、と同年代の知り合いの話を聞くと、そんなことが未だない私は友達が少ないのだと実感する。
でもそれでもよい。自分が好きなことについて話を聞いてくれてい、一緒に語らってくれる友達がいるので。友達でなくとも会える人はいるので。仲間もいるので。それで、私は充分である。
小説だから。そして原作至上主義
様々なコンテンツで物語に触れるのが好きだ。その中でも小説が好き。なぜなら文字情報が自分の頭の中でふんわりと形を結んで具現化させていくのが面白いから。
漫画も、アニメも、映画も、舞台も好き。それぞれの作り手が、それぞれの特徴を持って、それぞれの媒体の良さを最大限表現していく。それもそれで面白くてよい。
それでも、長らく触れてきた小説は私の中では別格である。安心する。そして物語に没頭しやすい。文字の渦の中で私の存在は希薄になり、主人公にも、別の登場人物にもなれる。描かれる心象がまるで自分のもののように思うこともある。あの人からあの人へ、いろんな場所を私は駆け巡る。
登場人物の外見も、声も、見える風景も、私の中で想像された世界になり、そんな面白さがあるのが小説なのだ。
また、小説や漫画を原作とした作品に触れることもままある。
とある作品のアニメ化で「声が違う」とショックを受けつつも、1話見終わる頃には思い描いていた声はアニメの声に上書きされたことがある。とある作品で実写化にショックを受け、しばらく実写化作品全般を避け続けていたものの、別のとある作品で感動し、実写化を少し前向きにとらえられるようにもなったこともある。
それを踏まえて言おう。私は原作至上主義者と。もちろん、素晴らしい作品も多いとは思うが、原作に触れて自分が好きになった部分を大事にしたい。
辻村さんの作品を原作とするアニメや映画に中々観に行けないのもそれが理由である。自分の思い描く世界を壊されるのを、上書かれるのが怖い。小説から想像した私だけの辻村さんの世界、それはこのままにしたい。でもそれはそうと気になるのも正直なところ。だから、いつか。
フィクションとお手本
たまに、文章を書くことがある。そしてたまに舞台の演出を空想することがある。
そんな創作するときはやはり何かしらの「お手本」たるものの影響が強い。(つまりこの文章も。)未だに私の「色」を見出すことができていないが、それでもいいと思ったものは頭の片隅に置いておきたい。
それは高校の時の苦くも青い経験に因るが、いつか、それは本当にいつか、きちんとその経験を超えたい気持ちがあるから。
自分が何が好きで、何にときめいたか、それを大事にしたいと思う。
本を読め!
私は本が大好きである。
本の読めない自分に価値を感じない、というと過言かもしれないし過言ではないかもしれない。しかし、人生の中心は今も本である。読めない期間があっても、私は本と共にある。
「子どもの読書離れ」が叫ばれて久しいが、当時小学生だった私はそれが嘘であると子どもながらに思っていた。こんなに図書館に本があって読書し放題なのに。読書が苦手だなんてもったいない。
とはいえ、私自身は本を読むことで怒られることもままあった。授業の支度をせずに本を読み耽り、気づけば授業が始まっていた。授業中に本を読んだ。宿題をする振りをして本を読んだ。そんなことばかりしていれば怒られるのも至極当然である。
ただただ自分の知らない世界、人物に触れられるのが楽しかった。私にとっては読書はゲームと同じ娯楽だったのだ。
中学生の時、「本だけが友達」と揶揄されたことがある。それは事実でもあり、むしろそう思われることを嬉しく思った。人間の友達などいなくとも、本の世界には現実よりももっとたくさんのそして多様な人と出会える。
今や現実にも知り合いがいる上、昔よりも読書量はだいぶ減ってしまったが、それでも現実の知り合いとの出会いと同じように、本との出会いも大事にしたい。
現状、本に関わりながら生きたい、と漠然と願ったあの頃とは違いはするが、ある意味遠くもないかもしれない。
大学卒業とともに、司書資格を取得した。資格取得の必須科目の中に、データベース関連があった。つまりはSQL文を使用した試験が課された。当時は丸暗記するしかできなかった。自分が必死こいてSQL文を書いて覚えている横で、情報系の同期が涼しい顔で受講していた(ように見えた)。しかし、社会人となり研修中にSQLを学んだ際、「これ知ってる」とデジャヴを感じた。デジャヴでもなんでもない、ただ大学で学んだことに再び出会えたことに感動した。司書もエンジニアもつながっているんだと強く感じた。
また、SEは勉強し続ける職業である、と教えられ、それは実務の中で実感するところである。調べて調べてプログラミングをすることも多く、誰かに聞けば済むこともあるし、誰も知らないこともある。その調べ方は同じく司書の講義の中で学んだ。自分で自分をレファレンスしている気分になって中々大変でありも面白い。
読書および本が好きである、という経験は今もなお活きている。
運命
辻村さんが運命的に好き、ということを書いたことがある。(note)
今回、辻村さんがピアノと習字を習っていた、ということを知り、同じような経験があることをまた嬉しく思った。
私が辻村さん(の作品)と出会ったのは小学生の頃であり、今もなお、辻村さんの作品には心動かされる。それは当時子どもだった私にも、今社会人となり「かつて子ども」だった私にも辻村さんの言葉はよく届くから。大人となってしまった悲しみを覚えることもあるが、その分辻村さんの描く大人にも近づけた気もして嬉しい。
辻村さんの作品には、共感できる子がいたり、わからないけど気になる子がいたり、読みながら自分と重なってしまうこともある。今回、このエッセイを読みながら辻村さん自身に大いに共感するところがあり、それもまた辻村さん作品の好きなところでもある。
私も図書館に住みたい。
おわりに
感想、というより大半は自分語りである。
辻村さんのエッセイは「わかる」「わかりたい」が混在する。特に「わかる!」と大いに頷けることが多々あり、また辻村さんの行動力に羨ましさも覚える。
だから私は辻村さんが大好きだ。
辻村さんの作品が大好きだ。