風を探す
鎌倉時代以降に広まった、辞世の句を詠む行為は、文人の死の間際や、武人の切腹の前等に詠まれる様になった。
広い意味で、死を意識せずに残した最後の詩歌も辞世の句と呼ばれている。
死の間際にならなくても、どう生きたいか、どう生きたかったか、どんな人生だったか、どんな世界を望むのか…。
そういう想いを形にして遺す、遺言とはまた違ったいずれ来る『死』への準備だ。
日頃、時代劇の世界で生きる事の多い私も、実の所、既に辞世の句を遺している。
それがこちら↓
Twitterの固定記事に設定しているこの句は、一年前の十二月三十日に投稿したもの。
後にも先にも説明をしていないので、まさかこれが辞世の句だったと思った人は居なかっただろう。
実はそうでした笑
ゐまほしく
そうは願へど
ゐるべからず
風に押されて
泳ぐ浮き雲
意)その場に留まりたいと思っても人生はそれを待ってくれない。空に浮かぶ雲と同じだ。
自身の屋号が『浮雲屋』である理由とも酷似しているが、これが私の人生観であり死生観である。
二十歳の時に父を亡くした私の中で、いつ何があるか分からないのが人生というのが刻まれた。
決定打となったのは、この句を詠む事になる二十日前、学生時代からの親友の死だった。
私は私の生きた証を句に遺すことにした。
妻にはまだ打ち明けていない。
きっと句の存在を知ったら、死ぬなんてマイナスな事を考えないでと叱るだろう。
しかし私は、心の底から、二人の幼い子どもを遺して死んでも良いとは思っていないし、死に向かって生きているんだなんて悲観も絶望もしていない。
ただ、いつ何が起きてもおかしくないのが人生だと、二人の大切な人の死を以て知ってしまったのだ。
生命保険をかけるのは死への準備であると同時に残された人達への想いだ。
ならば死ぬ前に、一つぐらい時代劇に生きる私らしい死への準備と想いを遺したとしても許されるだろう。
そう思って書いた句だ。
死への恐怖、生への執着、運命への抵抗、何気ない日常への憧れ。
そういった感情がこねくり回され、一つにまとまり私という人間を造形し、作品に投影されているのだと、改めて実感した。
こう言った人生観を語るに至った経緯がある。
大阪・道頓堀にあるZAZABOXという劇場で毎日上演されているフードミュージカル『GOTTA』にて私(ドヰタイジ)は、一年半演じた役を卒業した。
これこそ正に「ゐるべからず」である。
前に進む為には留まれないのだ。
留まっていてはいけないのだ。
そう強く思った。
今日も、私は風を探している。
乗るべき時流を見極めながら。
とは言っても、そんなものが分かっていれば現在はもっと違う景色が見えているだろう事は分かっている。
されど、探す事を止めればただ流されるだけだ。
雲であろうが、上手く流れる為の風は選ぶべきだろう。
それが人生を創るのだと、信じて止まない。
天道満彦。劇作家、小説家。 エンターテインメント時代劇ユニットSTAR★JACKS主宰、俳優、演出家、殺陣師であるドヰタイジのペンネーム。