本能寺の変 1582 上総介信長 5 205 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
上総介信長 5 清洲乗取り
清洲織田氏が信光を調略した。
天文二十三年(1554)、春。
こちらは、清洲城。
城主は、守護代織田彦五郎。
その小守護代が坂井大膳である。
打ち続く、負け戦。
清洲織田氏は、多くの重臣を失った。
信長に圧倒され、劣勢に陥っていた。
そこで、窮余の一策。
「調略」
信長の叔父、織田信光へ手を伸ばした。
大盤振る舞いである。
好条件を呈示した。
一、清洲の城、守護代織田彦五郎殿とてこれあり。
領在*の坂井大膳は、小守護代なり。
坂井甚介・河尻左馬丞・織田三位、歴々、討死にて、
大膳一人しては、抱えがたきの間、
此の上は、織田孫三郎(信光)殿を憑(たの)み入るの間、
力を添へ侯て、彦五郎殿と孫三郎殿、両守護代に御成り侯へと、
懇望申され侯のところ、
*意味不明
信光は、これを容れた。
否、そう、信じ込ませた。
中々の策士である。
坂井大膳好みの如くとて、表裏あるまじきの旨、
七枚起請を大膳かたへつかはし、相調(ととの)ひ侯。
(『信長公記』)
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