本能寺の変 1582 信長の台頭 6 285 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
信長の台頭 6 三好の絶頂
長慶は、河内と大和を同時に攻めた。
同八月。
本勢は、河内を。
松永久秀は、大和へ。
同、八月六日、三好衆、石川郡(河内南部)に出張しければ、
畠山方一揆(合衆)、合戦し、打ち負けて、八十余人討たるゝ、
此の時、大和衆、木沢大和守、三好方え一味同心す、
三好勢は、各所で圧勝した。
畠山方は、敗退を重ねた。
同月、十四日、安見美作守(宗房)、
飯盛城(四條畷市)より、堀溝(寝屋川市)と云ふ処へ、出張して、
池田衆と合戦し、安見、打ち負け、五十余人、打たれけり、
大和では、畠山方の井戸良弘が降伏した。
去る程に、和州、井土城主、こらえか子(ね)て、
松永方え、噯(あつかい)を入れて、城を明け渡しけり、
(「足利季世記」)
⇒ 次回へつづく
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