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本能寺の変 1582 信長の甲斐侵攻 2 85~89 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の甲斐侵攻 2 信忠、諏訪進出 

*85~89は、バックナンバーです。

85 天正十年1582、三月三日。

  信忠は、諏訪に進出した。        『信長公記』

86 穴山梅雪が武田を裏切った。       『信長公記』

  武田勝頼は、重臣・身内に見棄てられた。     『信長公記』

  徳川家康が駿河から甲斐に突入した。   『信長公記』

87 信忠の侵攻速度があまりにも速すぎた。  『信長公記』

  武田氏は、瓦解した。              『信長公記』
  勝頼は、孤軍となった。             『信長公記』

88 勝頼は、新府城に火を懸け退去した。   『信長公記』

  勝頼は、躑躅ヶ崎から新府に移ったばかりであった。『信長公記』
  落ち行く者たちの姿である。           『信長公記』

89 勝頼は、田野に追い込まれた。      『信長公記』

  勝頼は、覚悟を決めた。             『信長公記』
  噫、哀れなる勝頼かな。             『信長公記』

          ⇒ 次回へつづく


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