本能寺の変 1582 光秀という男 7 123 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
光秀という男 7 美濃の争乱
長井長弘・新左衛門が美濃の実権を奪取した。
小守護代長井氏が守護代斎藤氏に取って代わった。
大永五年(1525)のことである。
長井新左衛門は、着々と勢力を伸ばした。
その長井氏を牛耳っていたのが、新左衛門。
道三の父。
土岐頼芸が美濃の守護に就いた。
斯くして、頼芸が新たな美濃の国主となった。
ここに、ようやく、頼芸の念願が叶った。
土岐氏にとっては、目出度きこと。
しかし、・・・・・。
頼芸は、長井長弘・新左衛門の傀儡にすぎない。
しかも、新左衛門は、策士・策略家・策謀の人。
その前途には、暗雲が漂っていた。
新左衛門は、頼芸の直臣に取り立てられた。
すなわち、長井長弘と同じ立場になった。
新左衛門の野心は、止まることを知らず。
となれば、長弘は邪魔者となる。
次は、・・・・・。
恐ろしい時代である。
⇒ 次回へつづく
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