本能寺の変 1582 斎藤道三の下剋上 1 157 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
斎藤道三の下剋上 1 光秀の少年時代~思春期
土岐頼純の反撃が始まった。
天文四年(1535)
再び、戦いが始まった。
頼純は、大永四年1524の生れ。
この時、十二歳である。
朝倉孝景が頼純に援軍を派した。
頼純の母は、孝景の妹である。
美濃は、再び内乱状態になった。
土岐頼芸・道三 ✖ 土岐頼純・朝倉氏・六角氏
土岐頼芸と頼純が和睦した。
天文六年(1537)
美濃に、平和が訪れた。
「なれど、火種は消えず」
暫し、不安定な状態がつづく。
長井新九郎規秀(道三)は、斎藤新九郎利政に名を改めた。
「彼の者、斎藤同名に成りあかり」(「春日文書」)。
頼芸は、六角定頼と手を結んだ。
六角氏は、頼純を裏切った。
六角氏は、定頼→義賢(承禎)→義治とつづく。
定頼は、浅井亮政と対立していた。
浅井氏は、亮政→久政→長政とつづく。
⇒ 次回へつづく