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本能寺の変 1582 斎藤道三の下剋上 4 171 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

斎藤道三の下剋上 4 大うつけ 

信長の青春時代。

 結婚した頃の信長である。
 
  信長、十六、七、八までは、別の御遊びは御座なし。
  馬を朝夕、御稽古、
  又、三月より九月までは、川に入り、水練の御達者なり。
 
  其の折節、竹鎗(やり)にて扣(たた)き合ひを御覧じ、
  兎角、鎗はみじかく候ては悪しく侯はんと仰せられ候て、
  三間柄(え)、三間々中柄などにさせられ、

 身なり、風体。
 
  其の比(ころ)の御形儀(ぎょうぎ)、
  明衣(ゆかたびら)の袖をはづし、半袴、
  ひうち袋、色々余多(あまた)付けさせられ、
  御髪は、ちやせん(茶筅)に、くれなゐ(紅)糸・もゑぎ(萌黄)糸にて
  巻き立て、ゆわせられ、
  大刀、朱ざやをささせられ、悉(ことごと)く朱武者に仰せ付けらる。

 
 内に秘めた思いがあったのだろう。
 日夜、弓・鉄砲・兵法・鷹狩など戦稽古に明け暮れていた。
 
  市川大介めしよせられ、御弓御稽古。
  橋本一巴を師匠として、鉄炮御稽古。
  平田三位を不断召し寄せられ、兵法御稽古。
  御鷹野等なり。

 
 信長は、大うつけと言われていた。
 
  爰(ここ)に見悪(みにく)き事あり。
  町を御通りの時、人目をも御憚(はばか)りなく、
  くり・柿は申すに及ぱず、瓜をかぶりくひ(食)になされ、
  町中にて、立ちながら餅をほおばり、
  人により懸かり、人の肩につらさがりてより外は、
  御ありき(歩く)なく侯。
 
  其の比(ころ)は、世間、公道(礼儀作法をきちんとすること)なる
  折節にて候間、
  大うつ気とより外に申さず候。
                          (『信長公記』)


          ⇒ 次回へつづく


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