本能寺の変 1582 斎藤道三の下剋上 4 167 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
斎藤道三の下剋上 4 大うつけ
再び、織田信秀と今川義元が戦った。
天文十七年(1548)
三月十九日。
義元は、織田方の勢力を、三河から、一掃いようとしていた。
十九日、今川義元、松平広忠の為ニ、崇孚(太原)ヲシテ、
三河ニ於ケル織田信秀ノ属城ヲ攻略セシム、
第二次小豆坂の戦い。
是日、信秀、之ト同国小豆坂ニ戦ヒテ、敗績ス
(「史料綜覧」)
信秀は、劣勢に立たせられた。
前に、義元。
後ろに、道三。
信秀は、強敵に挟まれた。
*「小豆坂の戦い」は、これまで、天文十一年・同十七年の二度あった、
とされてきた。
果たして、本当に、そうなのだろうか。
近年では、十七年一度説の方が有力視される傾向にあるという。
しかし、その内容が、あまりにも大きく食い違う。
一度なのか、二度なのか。
それを、決定づける確たる史料がない。
したがって、真偽のほどは、わからない。
故に、ここでは、従来の二度説をとった。
新史料の発見を待つのみ、である。
*【参照】161 第一次小豆坂の戦い。
越前の朝倉孝景が死んだ。
同、三月二十二日。
享年、五十六歳。
廿二日、越前守護朝倉孝景卒ス、
朝倉氏は、義景の代になった。
同、九月九日。
義景は、天文二年(1533)の生れ。
この時、十六歳。
代替わりの礼物を献上した。
九日、
越前守護朝倉延景(義景)、家督相続ノ御礼物等ヲ献ズ、
(「史料綜覧」)
⇒ 次回へつづく
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?