本能寺の変 1582 上総介信長 5 208 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
上総介信長 5 清洲乗取り
信光は、不慮の死を遂げた。
その半年後。
其の年の霜月廿六日、不慮の仕合せ出来(しゅったい)して、
孫三郎殿御遷化。
忽(たちま)ち、誓紙の御罰、天道恐ろしきかなと、申しならし侯ひき。
余りにも、都合が良すぎる。
太田牛一は、「幸運だった」、と言っている。
サッと流したの感。
併しながら、上総介、政(まつりごと)、御果報の故なり。
(『信長公記』)
信長は、尾張下四郡を丸々手に入れた。
余りにも、出来すぎた話ある。
信長は、禍根を絶った。
信長は、先手をうった。
「暗殺」
恐ろしい、時代であった。
「禍根」
絶たねばならない。
「油断」
殺さねば、殺される。
信長は、末恐ろしい男だった。
信長ならば、やりかねない。
この時、二十一歳。
「手段を選ばず」
末恐ろしい男である。
しかし、これを裏付ける、確たる史料がない。
限りなく、「黒」に近い「灰色」である。
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