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本能寺の変 1582 上総介信長 3 196 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
上総介信長 3 三好長慶の下剋上
長慶は、将軍義輝を追放した。
山科言継は、この戦いの一部始終を見ていた。
歴史の目撃者である。
次、諸勢、打ち廻り、
東、万里小路、
中は、室町、
西は、油小路を下へ引きおわんぬ、
京中は、陣取りせざるなり、
東の衆、予(言継)、見物す、
十河、其の外、河内・紀州衆、一萬計(ばか)りこれ有り、
大和衆、五千、未だ付(着)かずと云々、
言語道断の見事(見もの)、驚目者なり、
此の如くの人数、御敵、捕らえられ、
残し増敷(まじ)き為體(ていたらく=有様)なり、
是れ、偏(ひとえ)に、上野民部大輔(信孝)悪行なり、
言語不可説、々々々、
(「言継卿記」天文二十二年八月一日条)
長慶の下剋上である。
戦国時代である。
権力の主体は、上から下へ。
将軍 → 管領 細川氏 → その被官(家臣) 三好氏
信長の下剋上は、丁度、この20年後に起きる。
すなわち、元亀四年(1573)、七月。
将軍義昭を追放。
義昭は、義輝の弟である。
歴史は、繰り返す。
肝に、銘ずべし。
⇒ 次回へつづく