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本能寺の変 1582 上総介信長 2 184 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

上総介信長 2 富田聖徳寺 

平手政秀が自害した。 

 天文22年(1553)
 
閏一月十三日。
 確かな理由は、わからぬ。
 当時、信長と政秀の嫡男五郎右衛門との間に、「馬」をめぐって 
 確執があった。
 
  一、平手中務丞が子息、一男五郎右衛門・二男監物・三男甚左衛門
    (汎秀)とて、兄弟三人これあり。

    総領の平手五郎右衛門、能き駿馬を所持侯。
    三郎信長公、御所望侯ところ、
    にくぶりを申し、某は武者を仕り候間、御免侯へと申し侯て、
    進上申さず候。
    信長公、御遺恨浅からず、
    度々、おぼしめしあたらせられ、主従不和となるなり。

信長は、「上総介」を称していた。

 「自官」、とある。
 自称していた。
 
  三郎信長公は、上総介信長と自官に任ぜられ侯なり。

 太田牛一は、政秀の死を、信長のうつけぶりを改めさせるための
 「諌死」であった、と述べている。
 
  一、さる程に、平手中務丞、
    上総介信長公、実目(じちめ=まじめ)に御座なき様体をくやみ、
    守り立て験(げん)なく侯へば、存命侯ても、詮なき事、
    と申し侯て、
    腹を切り、相果て侯。

                           (『信長公記』)

 信長は、政秀寺を建立した。

 政秀寺は、現存する(愛知県名古屋市中区栄3丁目)。
 寺歴については、以下の通り。

政秀寺の歴史

臨済宗妙心寺派の寺院、瑞雲山と号す。
天文22年(1553)、織田信長が、自分の素行不良をなげいて諌死した平手政秀の菩堤を弔うため、小牧山の南、政秀の領地小木村に創建し、沢彦和尚を開山とした。

寺は天正12年(1584)、小牧・長久手の戦いで焼失。その翌年清須に再興され、慶長15年(1610)清須越で現在地に移設された。

本尊は木造十一面観世音菩薩坐像である。政秀の墓はかつて本寺にあったが、今は名古屋市の平和公園内政秀寺墓地に移されている。
                      (政秀寺ホームページより)

          ⇒ 次回へつづく

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