本能寺の変 1582 光秀と信長 2 62 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
光秀と信長 2 美濃立政寺
信長は、自信に漲っていた。
信長は、この時、35歳。
正に、男盛り。
心身ともに壮健。
力に満ち溢れていた。
以下、これまでの略歴を示す。
天文 3年 1534 生まれる。
同 18年 1549 斎藤道三の娘と結婚。 16歳
同 21年 1552 父の死により、家督を継承。 19歳
同 22年 1553 斎藤道三と聖徳時にて会見。 20歳
同 23年 1554 清洲城を手に入れた。 21歳
〃 〃 叔父信光を暗殺。 〃
弘治 2年 1556 斎藤道三、死す。 23歳
永禄 元年 1558 弟信勝を殺害。 25歳
同 2年 1559 岩倉城攻略、尾張統一成る。 26歳
同 3年 1560 桶狭間にて、今川義元を討ち取る。 27歳
同 4年 1561 美濃の斎藤義龍、急死。 28歳
同 5年 1562 家康と同盟を結ぶ。 29歳
同 6年 1563 清洲から小牧山に移る。 30歳
同 7年 1564 上杉謙信との交流が始まった。 31歳
同 8年 1565 将軍足利義輝が殺害された。 32歳
同 9年 1566 上洛取り止め、齋藤龍興に敗れる。 33歳
同 10年 1567 稲葉山城攻略、美濃統一成る。 34歳
背景には、領国拡大があった。
信長の領国は、美濃と尾張。
いずれも、穀倉地帯。
生産性のきわめて高い国々だった。
当時の経済基盤は、「米」。
石高の多いところに、「人」が集まり、「銭」が集まった。
また、三本もの、大河があり、伊勢湾へ通じていた。
東西南北、縦横無尽に繋がる交通の要衝でもあった。
したがって、昔から商工業も盛んな地域だった。
となれば、なおさらである。
信長は、軍事力を強化した。
すなわち、兵と武器。
それを可能にしたのが、「米」・「人」・「銭」だったのである。
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