本能寺の変 1582 光秀という男 5 112 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
光秀という男 5 1400年代
1467年、応仁の乱が始まった。
応仁元年。
時の将軍は、第八代足利義政である。
時代は、戦国時代に突入した。
美濃は、その渦中へ引き込まれた。
妙椿は、応仁の乱に参戦した。
妙椿は、成頼とともに西軍(山名宗全)に属した。
となれば、富島氏は東軍(細川勝元)となる。
妙椿は、富島氏を駆逐した。
応仁二年(1468)。
妙椿は、富島氏の本拠地垂井を攻撃。
富島氏は、近江へ逃走。
斎藤氏は、同氏を美濃から一掃した。
長い戦いだった。
美濃の錯乱は、ようやく、終わった。
妙椿は、土岐氏を超える力を有していた。
斎藤氏は、美濃を制覇した。
その勢力は、土岐氏を凌ぎ、隣国へも影響を及ぼすほど強大なものに
なった。
この頃が斎藤氏のピークだった。
妙椿は、土岐成頼を意のままに動かした。
斎藤氏は、守護家を越える存在に成り上がった。
文明十二年(1480)。
妙椿、病没。
美濃は、再び、不穏な情勢となる。
⇒ 次回へつづく
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