本能寺の変 1582 信長の台頭 8 296 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
信長の台頭 8 三好の衰退
三好軍、大敗。
実休が討死した。
三好氏に、災難がつづく。
十河一存に次いで、これで二人目である。
かかりける中に、実休の先手は敗軍をし、の(退)きけれども、
(実休は)一族・若党卅余人引率し、勝ちほこりたる敵の中え、
わめいてかけ入り、一人も残らず討死しける、
実休をば、根来衆に往来左京と云ふもの、突き落とし、
首とりて、指し上げたり、
惣じて、三好方士(さむらい)二百余人、首を打ちとられにけり、
(「足利季世記」)
これ以後、三好氏は転落への道を歩む。
長慶にとっては、大きな痛手。
右腕を捥ぎ取られたに等しい。
斯くして、盛りの時は終わった。
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