本能寺の変 1582 光秀という男 3 108 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
光秀という男 3 土岐氏
義満は、有力守護の排除を画策した。
先ず、手をつけたのが土岐氏であった。
土岐頼康が死んだ。
嘉慶元年(1387)。
享年、七十。
土岐康行が頼康の跡を引き継いだ(世安家)。
頼康は、実子がいなかった。
弟(頼雄)の子を養子(康行)にしていた。
康行は、従弟の詮直(あきなお)を尾張守護代とし、弟満貞を将軍義満に
近侍させていた。
義満は、康行を挑発した。
満貞には、野心があった。
義満は、それを巧みに利用した。
満貞を尾張守護に任命。
土岐氏の分裂を図った。
嘉慶二年(1388)。
満貞が尾張へ下向した。
詮直がこれを迎え撃った。
満貞は、京へ逃げかえった。
義満に、報告。
一族内の争いが「康行謀叛」へ発展した。
康行は、罠に嵌まった(土岐康行の乱)。
康応元年(1389)。
追討軍が編成された。
義満は、一族の土岐頼忠にこれを命じた。
康行は、没落した。
明徳元年(1390)。
謀叛は、鎮圧された。
康行は、三ヶ国を失った。
義満は、土岐頼忠を美濃の守護に任じた(西池田家)。
頼忠は、土岐頼清の子。
頼康・頼雄の弟である。
幕府方に与し、康行と戦った。
この家系を土岐西池田家という。
すなわち、美濃の土岐守護家は、世安家(嫡流)から西池田家(庶流)に
切り替わった。
⑥土岐康行―頼忠―頼益―持益
土岐氏は、解体された。
桔梗一揆は、崩壊した。
以後、土岐氏は衰退への道を歩む。
⇒ 次回へつづく