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本能寺の変 1582 上総介信長 2 191 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

上総介信長 2 富田聖徳寺 

清洲織田氏の実権は、小守護代坂井大膳の手に移っていた。 

 同七月十二日。
 大膳が先手を打った。

大膳は、嫡男義銀が川狩りに出かけた隙を狙った。

 坂井大膳にとって、守護は、最早、「無用の長物」にすぎなかった。
 これが戦国時代である。
 
  一、七月十二日、若武衛様(斯波義銀)に御伴申し究竟の若侍、
    悉(ことごと)く、川狩に罷り出でられ、
    内には、老者の仁体(じんてい)纔(わずか)に少々相残る。
 
    誰々これ在りと、指折り見申し、
    坂井大膳・河尻左馬丞・織田三位、談合を究め、
    今こそ能き折節なりと、どッと四方より押し寄せ、
    御殿を取り巻く。
 
    面(おもて)広間の口にて、何あみと申す御同朋(どうぼう)、
    是れは謡を能く仕り侯仁(じん)にて侯。
    切つて出で、働く事、比類なし。

    又、はざまの森刑部丞兄弟、切つてまはり、
    余多(あまた)に手を負はせ討死。
    頸は、柴田角内、ニッとるなり。

    うらの口にては、柘植宗花と申す仁、切つて出で切つて出で、
    比類なき働きなり。

大膳は、斯波義統を殺害した。

 これもまた、下剋上。
 名門守護の最期である。

    四方屋の上より、弓の衆、さし取り引きつめ、散々に射立てられ、
    相叶はず、御殿に火を懸け、御一門数十人歴々御腹めされ、
    御上﨟衆は堀へ飛び入り、渡り越し、たすかる人もあり、
    水におぼれ死ぬるもあり。
    哀れなる有様なり。
                           (『信長公記』)


          ⇒ 次回へつづく

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