本能寺の変 1582 上総介信長 5 206 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
上総介信長 5 清洲乗取り
信長は、清洲城乗っ取りを策した。
信長は、これを知った。
そして、逆手を取った。
「謀略」
裏の裏を掻く。
信長と信光。
二人の間には、密約があった。
信光が清州城に入った。
南矢倉、とある。
坂井大膳は、味方するものだと思っていた。
「七枚起請」
信光は、まんまと、大膳を欺いた
一、四月十九日、守山の織田孫三郎殿、清洲の城南矢蔵へ御移り。
表向は、此の如くにて、
信長は、信光に、好条件を示していた。
成功すれば、下四郡の全てが手に入る。
ないしんは、信長と仰せ談ぜられ、
清洲を宥(なだ)め取り進(まいら)せらるべきの間、
その内の二郡を、信光に、分け与える約束をしていた。
尾州下郡四郡の内に、於多井川(庄内川)とて、
大かたは、此の川を限りての事なり。
孫三郎殿へ渡し参らせられ侯へと、御約諾の抜公事なり。
此の孫三郎殿と申すは、信長の伯父にて侯。
川西・川東と云ふは、尾張半国の内、下郡二郡。
二郡づつとの約束にて侯なり。
(『信長公記』)
⇒ 次回へつづく