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本能寺の変 1582 光秀の苦悩 4 22 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀の苦悩 4 粛清の怖れ 

本願寺との戦いが終わった、今。 

 すなわち、天正八年(1580)八月。

信長は、畿内軍の再編成を考えていた。

 巨大な軍事力である。
 織田軍に、大きな余力が生まれた。

信長は、信盛を選から外した。

 「役に立たぬ」
 そう、判断したのである。

 否、そればかりではなかった。

信長は、織田家の将来を考えた。

 佐久間信盛は、古くからの家臣。
 重臣筆頭。
 宿老・古老である。
 しかも、大身。
 尾張・南近江に広大な所領を持っていた。

 織田家中で、信盛と双璧をなす、もう一人の重臣、柴田勝家には、
 以前、信長に背いたという古傷があった。
 信盛に、そのような過去は全く見うけられない。
 これまで、終始一貫して、信長を支えつづけてきた。
 忠臣である。
 だが、それ故の、言動をとることも稀にはあった。
 考えようによれば、厄介な存在だった。

 美濃・尾張は、信忠の領国。
 信長は、信忠の今後を考えた。
 
 そして、近江のことを。
 勝家からは、近江の所領を召し上げた。
 その代わりに、新領として、越前を与えている。 

信長は、信盛を叱りつけた。

 信長の激しい気性が滲み出ている。 

その時の折檻状である。

 全十九ヶ条。
 長文である。
 その一部を抜粋する。

  爰(ここ)にて、佐久間右衛門かたへ、御折檻の条、
  御自筆にて仰せ遣はさるゝ趣、

信長は、長い間、我慢していた。

 鬱積していた感情が、ここで一気に噴き出した。
 「この五年間」、「佐久間父子」は、「緩怠」だった、と言い切った。
 織田家の宿老として、また指揮官として、不適格との烙印を押したので
 ある。
 
     
 
  一、父子、五ケ年在城の内に、善悪の働きこれなきの段、
    世間の不審余儀なく、
    我々も思ひあたり、言葉にも述べがたき事。

信盛は、そのことに気づかなかった。

 信長は、信盛が手を抜いていると思っていた。
 しかし、信盛は、光秀・秀吉・勝家とは違うタイプの人物だった。
 波長が合わないのである。
 信長とは、全く違う周波数の持ち主だった。
 信長は、それでも、待った。
 気づくことを期待して。
 そして、この日。
 不幸なことである。

  一、此の心持の推量、大坂大敵と存じ、武篇(武辺)にも構へず、
    調儀・調略の道にも立ち入らず、

    たゞ、居城(いじろ)の取出を丈夫にかまへ、幾年も送り侯へば、
    彼の相手、長袖(坊主)の事に侯間、
    行く々々は、信長威光を以て、退くべく侯条、

    さて、遠慮を加へ侯か。
 
 
信盛は、あまりにも消極的すぎた。
 天王寺砦に立て籠もるばかり。
 早期終結のために、何ら手を打たなかったのである。
 今や、織田家は大組織。
 信盛は、その家臣団の頂点にいた。
 「己の立場を考えよ」
 そういう事、だろう。
 「示しがつかぬ」
 信長が激怒するのも、わかるような気がする。

    但し、武者道の儀、各別たるべし。
 
    か様の折節、勝ちまけを分別せしめ、一戦を遂ぐれば、
    信長のため、且つ父子のため、諸卒、苦労をも遁(のが)れ、
    誠に本意たるべきに、

    一篇に存じ詰むる事、分別もなく、未練疑ひなき事。
                         (『信長公記』)
 

⇒ 次回へつづく 


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