本能寺の変 1582 斎藤道三の下剋上 3 165 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
斎藤道三の下剋上 3 光秀の青年時代
織田信秀が古渡城を築いた。
同、天文十五年
この頃だろう。
信秀は、新たに古渡城を築いた。
那古野城から、新城に移る。
信長、元服。
信長は、古渡城で元服した。
吉法師改め、織田三郎信長を名乗る。
十三歳の時。
吉法師殿、十三の御歳、
林佐渡守(秀貞)・平手中務(政秀)・青山与三右衛門・内藤勝介、
御伴申し、
古渡の御城にて、御元服。
織田三郎信長と進め(=名乗)られ、御酒宴御祝儀斜めならず。
信秀は、信長に那古野城を与えた。
信秀は、元服を機に、信長に那古野城を譲った。
両城は、ほぼ南北に位置し、その距離は一里に満たない。
すなわち、指呼の間。
当時は、視認できた。
また、この時、若年の信長のために、四人の家老をつけている。
或る時、備後守、国中、那古野へこさせられ、
丈夫に御要害仰せ付けられ、
嫡男、織田吉法師殿に、
一おとな 林新五郎(秀貞)、
二長(おとな)、平手中務丞(政秀)、
三長、青山与三右衛門、
四長、内藤勝介、
是れらを相添へ、
御台所賄(経理など)の事、平手中務。
(信秀は)御不弁限りなく(熱田から遠くて不都合だから)、
天王坊と申す寺(亀尾天王社=現那古野神社)ヘ
御登山なされ(築城地選定のため)、
那古野の城を吉法師殿へ御譲り侯て、
熱田の並び古渡と云ふ所に新城を拵へ、備後守御居城なり。
御台所賄、山田弥右衛門なり。
(『信長公記』)
武田勝頼、生まれる。
同、天文十五年
信玄の四男。
母は、側室、諏訪頼重の娘。
信長の元服の年に生まれた。
信長は、
信玄より十三歳年下、
勝頼より十一歳年上、
ということになる。
⇒ 次回へつづく