本能寺の変 1582 光秀という男 4 109 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
光秀という男 4 教訓
光秀は、土岐の歴史から教訓を得た。
光秀は、土岐の一族。
我が家・我が先祖を誇りに思っていた。
知れば、知るほどに。
そして、「土岐康行の乱」。
一、主君といえども、油断してはならぬ。
否、主君ならばこそ、・・・・・。
先祖たちの、血と汗の結晶。
土岐氏は、頼康の代に、最盛期を築き上げた。
それを解体したのが、他ならぬ将軍義満であった。
土岐氏の栄華は、無惨にも、主君の手によって打ち砕かれた。
一、頼りとするのは、己の力のみ。
土岐氏の一族は、盟主を失った。
結果、桔梗一揆は崩壊した。
それぞれ、生き残る道を模索する。
一、判断を誤れば、消滅する。
以後、土岐氏は衰退への道を歩む。
光秀の脳裏には、常に義満と信長があった。
第三代将軍足利義満と主君織田信長が。
光秀は、土岐康行を、自身と重ね合わせた。
油断すれば、全てを失う。
⇒ 次回へつづく
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