本能寺の変 1582 光秀の苦悩 4 29 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
光秀の苦悩 4 粛清の怖れ
信長は、恐ろしい男なのである。
信盛は 、織田家から抹消された。
右、数年の内、一廉(ひとかど)の働きなき者、未練の子細、
今度、保田において思ひ当り侯。
信長は、絶対専制君主。
逆らう者など誰もいない。
抑(そもそ)も、天下を申しつくる信長に、
口答えなど、以ての外なのである。
信盛は、甘かった。
口答申す輩(ともがら)、前代に始り侯条、
信長は、信盛を粛清した。
斯くして、全てが終わった。
爰(ここ)を以て、当末二ケ条を致すべし。
請けなきにおいては、二度天下の赦免これあるまじきものなり。
天正八年八月 日
(『信長公記』)
走狗煮らる。
用が済めば、捨てられる。
正に、故事の如し。
飛鳥尽きて、良弓蔵(かく)る、
狡兎(こうと=うさぎ)死して、走狗(そうく=犬)烹(煮)らる、
(「史記」越王勾践世家)
光秀は、この光景を目の当たりにした。
織田家中に衝撃が走った。
重臣たちは、震え上がった。
「明日は、我が身」、である。
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