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本能寺の変 1582 信長の台頭 3 270 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
信長の台頭 3 桶狭間
これすなわち、因果応報。
山口父子は、信長を裏切った。
【参照】180、210
一、山口左馬助・同九郎二郎父子に、
信長公の御父、織田備後守(信秀)、累年、御目を懸けられ、
鳴海に在城。
不慮に、御遷化(せんげ)侯へば、程なく御厚恩を忘れ、
信長公へ敵対を含み、
そして、今川義元へ寝返った。
今川義元へ忠節をなし、居城鳴海へ引き入れ、智多郡御手に属し、
其の上、愛智郡へ推し入り、笠寺*と云ふ所に要害を構へ、
岡部五郎兵衛・かつら山・浅井小四郎・飯尾豊前・三浦左馬助、
在城。
鳴海には、子息九郎二郎を入れ置き、
笠寺の並び中村の郷、取出を構へ、山口左馬助、居陣なり。
此の如く、重々(かさねがさね)、忠節申すのところに、
*笠寺 愛知県名古屋市南区笠寺町
ところが、その義元に誅殺された。
【参照】180、210
駿河へ、左馬助・九郎二郎両人召し寄せられ、
御褒美は、聊(いささ)かもこれなく、
情なく、無下々々と、生害させられ侯。
その義元の最期が斯くの如し。
・・・・・、である。
世は、澆季(ぎょうき=乱世)に及ぶと雖(いえども)も、
日月、未だ地に堕ちず。
今川義元、山口左馬助が在所へきたり、
鳴海にて、四万五千の大軍を靡(なび)かし、それも御用にたたず。
千が一の信長、纔(わず)か二千に及ぶ人数に、
扣(たた)き立てられ、
迯(逃)れ死に、相果てられ、
これすなわち、因果応報。
浅猿敷(あさましき)仕合せ、因果歴然、善悪ニツの道理、
天道、恐敷(おそろしく)侯ひしなり。
(『信長公記』)
⇒ 次回へつづく