本能寺の変 1582 信長の台頭 3 266 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
信長の台頭 3 桶狭間
信長は、強運だった。
信長は、中島砦を出た。
進軍方向に注目。
「山際」、とある。
地形図を参照されたい。
山際まで、御人数寄せられ侯ところ、
その時、天気が急変した。
丁度、梅雨どきである。
次第に空が暗くなり、雨が降り始めた。
そして、アッという間に土砂降りになった、
さらに、西からの強風が吹きあれた。
今川勢にとっては、向かい風。
雹(ひょう)混じりの豪雨である。
目を開けることができない。
俄に、急雨(むらさめ)、
石氷を投げ打つ様に、敵の輔(つら)に打ち付くる。
逆に、織田勢にとっては、追い風になった。
身方は、後の方に降りかゝる。
信長は、天を味方につけた。
信長は、前方を睨みつけた。
「天祐」
そう、思っただろう。
天地に、雷鳴がとどろきわたった。
沓掛の到下(峠)の松の本に、二かい(抱え)三かゐ(抱え)の楠の木、
雨に、東へ降り倒るゝ。
余りの事に、熱田大明神の神軍(かみいくさ)かと申し侯なり。
(『信長公記』)
織田勢は、その中に、忽然と姿を消した。
信長は、義元の本陣へ近づいた。
その間、おそらく、20~30分。
となれば、2~3kmは進軍できよう。
信長は、周辺の地形を知悉していた。
予め、この辺りを決戦場に想定していたものと思う。
まるで、誘導されたが如く。
義元は、その地に陣を張った。
上機嫌である。
祝杯に酔いしれていた。
信長は、間近まで、忍び寄った。
今川勢は、まだ、気づいていない。
⇒ 次回へつづく
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