学生を食い物にしない
僕は人事で採用採用をやっている仕事柄、就活生や求職者と話をさせてもらうことが多い。その場で感じることは同じ人間で同じ世の中に生きているはずなのに、自然と上下関係(ヒエラルキー)ができる。
僕は極力それを作らないために前提条件として関係性はフラットだし、早く生まれて社会に出ているだけだよと説明してます。
もちろん相手に失礼のないようにという配慮は大切かもしれないが、あたかもその人の話している事がすべて正しいみたいな過剰な『滅私』はして欲しくない。
人は正しさを持っている
前提として人間は正しい事が好きである。
自分のやっている事や進んでいる道が正しいと思いたい。
だからこそ違う事をしていたり、別の道を進んでいる人の事を批判したり攻撃したりしてしまう。
でもここで考えてほしい。本当に『正しさ』なんてあるのか?と。
人生に正解はないし、思い通りになんていかない。
そんな中で誰かが言う正解を信じて生きることにどれぐらいの価値があるだろうか。それを年齢や役職や働いている会社や肩書なんかで判断できるだろうか?
学生は『選択する』その方法を知らない
もう一つ。学生は選択する方法を知らない事が多い。
それは教育環境における悲劇。
大抵の学生は自分の進む大学を決める時、偏差値で選ぶ。(一番じゃないにしろ条件に入ってくる)
結果入学し、大学に行かなくなったり、自分が何のために大学に入ったか分からなくなったり、単位取るためだけに大学に行ったりする。
それは世の中が決めた「偏差値が高ければいい」という自分の中にない基準で選んでしまうからだ。そのコミュニティに所属していれば自分が何者かになれるのではないかという依存にも似た判断。(この辺りは自分も人のこと言えない選び方だったと思う)
そもそも自分がなぜ大学に行くか考えて選んでいる人は少ない。それが就職活動になった瞬間に偏差値のような会社を一律で測るようなものは何もなく、自分が何で決めてきたかもわからない状態に追い込まれる。
そんな学生を相手にしている人事だからこそ
僕たちは気を付けなければいけない。
目の前にいる学生を自分達の目標達成の道具と勘違いしてはいけない。
もっと言えば自分の会社に必要かだけを判断し続けるような作業をしてはいいけないし、利用してはいけないと思う。
これから社会に出て未来を担う学生に社会に出るということはどういうことなのか、働くとは何のためにするのか。
それを伝えていくことが僕ら人事という学生が一番最初に触れる社会の入口としてできることだと思います。
読んでいただき有難うございます。