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温故知新(72)八坂入媛命(橘比売命) 磯浜古墳群 車塚古墳 姫塚古墳 日下ヶ塚古墳 長柄桜山古墳群 アルテミス神殿 真土大塚山古墳 日葉酢媛命 渋谷向山古墳
茨城県東茨城郡大洗町にある磯浜古墳群は、古墳時代前期前葉(3世紀中頃)の姫塚古墳から築造が始まり、古墳時代中期初頭(4世紀後半)の車塚古墳(写真トップ、1)で終焉を迎えたと推定されています。磯浜古墳群にある日下ヶ塚古墳から見つかった石製模造品は、神功皇后の墓と推定される富雄丸山古墳のものとの類似性が指摘されています。
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車塚古墳(大洗町)と富雄丸山古墳を結ぶラインは、玉前神社とイギリスの聖ミカエルの山(St Michael's Mount)を結ぶラインとほぼ直角に交差し、玉前神社と聖ミカエルの山を結ぶラインは、舂米女王(上宮大娘姫王)の墓と推定される壬生車塚古墳や石油の里公園(新潟市秋葉区)の近くを通ります(図1)。レイライン上に宮ノ下遺跡や石油の里公園があることから、縄文時代からあったレイラインではないかと思われます。
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車塚古墳(大洗町)の被葬者は、神功皇后と血縁関係があるのではないかと思われます。神功皇后は、彦坐王の子の狭穂彦王(建稲種命と推定)の娘の金田屋野姫命と推定され、玉前神社は、玉依毘売命(台与、姥津媛と推定)を祀っているので、車塚古墳(大洗町)の被葬者も和珥氏の女性と思われます。車塚古墳の大きさや、玉前神社は景行天皇の后の橘比売命と関係があると推定されることから、車塚古墳(大洗町)の被葬者は、成務天皇や五百城入彦皇子の母の八坂入媛命(橘比売命と推定)と推定されます。
大洗磯前神社(大洗町)の近くにある少彦男心命(少彦名命と推定)の墓と推定される姫塚古墳と孝元天皇の陵墓と推定される備前車塚古墳とレイラインでつながっているアルテミス神殿を結ぶラインの近くには日本武尊と弟橘姫命を祀る笠原神社(茨城県水戸市)、河井八幡宮(栃木県芳賀郡茂木町)、金山彦命を祀る金峯神社(新潟県長岡市)があり、このラインは、大國魂神社(いわき市)と筑波山神社(つくば市)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図2)。
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日下ヶ塚古墳は、神奈川県逗子市にある長柄桜山古墳群の2号墳(4世紀の古墳時代前期の前方後円墳)との類似が指摘されています(東国から見たゆるめの古代史 第12回「磯浜古墳群と長柄桜山古墳群」)。長柄桜山古墳群は、ヤマト王権との関係性が深く、房総方面への交通の要衝を押さえる場所を選んで造営された古墳と考えられています。日下ヶ塚古墳と長柄桜山古墳群を結ぶラインは、玉前神社とアルテミス神殿を結ぶラインとほぼ直角に交差し、玉前神社とアルテミス神殿を結ぶラインの近くには、慈眼院(群馬県高崎市)、ヒスイ海岸(新潟県糸魚川市)、羽黒神社(石川県珠洲市)があります(図3)。レイライン上にヒスイ海岸があることから、図1のラインと同様に、縄文時代からあったレイラインではないかと思われます。日下ヶ塚古墳と長柄桜山古墳群の被葬者は、孝元天皇や少彦男心命と同様にアルテミス神殿と関係付けられていることから、姫塚古墳の被葬者と推定される少彦男心命(少彦名命と推定)と関係があると思われ、少彦男心命の子孫かその配偶者の墓ではないかと思われます。
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長柄桜山古墳群との類似性が注目されている、同じ神奈川県内の交通の要衝にある平塚市の真土大塚山古墳と日下ヶ塚古墳を結ぶラインは、長柄桜山古墳群とパレルモを結ぶラインとほぼ直角に交差し、長柄桜山古墳群とパレルモを結ぶラインの近くには、雲取山や諏訪山があります(図4)。真土大塚山古墳の被葬者も日下ヶ塚古墳の被葬者と血縁関係があると推定されます。
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日下ヶ塚古墳は、日葉酢媛命の墓と推定される渋谷向山古墳(景行天皇 山邊道上陵)とも類似していることが知られています。第11代垂仁天皇の皇后で、第12代景行天皇や倭姫命等の母の日葉酢媛命は、彦坐王の子の丹波道主王の娘なので、神功皇后とは、いとこ同士と推定されます。
日下ヶ塚古墳と渋谷向山古墳を結ぶラインは、長柄桜山古墳群とモン・サン・ミシェルを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図5)。長柄桜山古墳群とモン・サン・ミシェルを結ぶラインの近くには、榛名山や仏足石で知られる善徳寺(新潟県上越市)があります(図5)。日下ヶ塚古墳の被葬者は、日葉酢媛命と血縁関係があると推定され、もしかすると、日葉酢媛命の娘で、景行天皇の妹の大中姫命かもしれません。神功皇后のいとこである日葉酢媛命の娘であれば、日下ヶ塚古墳と富雄丸山古墳の石製模造品の類似性が説明できます。車塚古墳が、景行天皇の后の八坂入媛命(橘比売命)の墓とすると、車塚古墳と日下ヶ塚古墳の推定築造年が近いこととも整合します。
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宮内庁により明治の初めに日葉酢媛命陵に治定された佐紀陵山古墳も、渋谷向山古墳や日下ヶ塚古墳と似ているといわれていますが、佐紀陵山古墳は、神功皇后や応神天皇と対立した倭讃(麛坂皇子 香坂王と推定)の墓ではないかと思われます。