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平温な時の自分はいったいどんなものなんだ?

何気なく見ていたこちらのyoutubeで

いろいろ激しく頷いて聞いてしまう内容でした。

ちょうど、友達とやっているスタンドエフエムの過去回を聞いていて「クソバイスする人」「自他境界が曖昧になりすぎてる人」の話をしていたんですが、このyoutubeの内容と少しリンクしているような気がしたんです。

スタンドエフエムで話していた内容が「最近クソバイスする人が増えたよね」「自他境界が曖昧になっている人が増えたよね」という内容でした。
クソバイスとは言葉の通り、クソみたいなアドバイスをする人です。
自他境界というのは「自分と他人を分ける境界線、または自分と他者を分けて認識すること」です。
私の勝手なイメージですが、人にアドバイスをしたがる人と自他境界が曖昧な人ってコメントする機会が多い気がします。

私はまずコメントというものを避けてきた人間です。
理由は「自分に聞かれていない事に対して意見はしない」という感覚でいる、というのが1つ。
もう1つは自分の意見に対してコメントしてくる人がいたら怖いから、です。
割とネガティブな人間なので自分の意見に否定的なコメントや強い口調のコメントがつくと、かなり傷つくので、その可能性がある行動を取りたくないんです。
でも、そういう人間がいてもおかしくないくらい「コメント」というものがおかしくなってきているような気がします。

日本のテレビ番組にニュースの内容の専門家以外の職業の人がコメントをする「コメンテーター」というポジションの人がいらっしゃいますが、あれって日本独特のものみたいです。海外では「なぜ話題に上がっている事の専門家でもない人がコメントしてるの?」となるようです。
そう言われれば本当にそうで。

なんでかなーと思った時に思い出したのが「ご意見番」。
江戸時代で徳川家康以降3代に渡り仕え、天下のご意見番といわれた大久保彦左衛門は、心得違いがあれば将軍すら叱りとばす江戸庶民の痛快なヒーローとして小説化・芝居化され広まる事で「どんな立場であろうとも正しい事を主張する姿素敵!」というイメージができたんだと思います。

それが、カジュアルにいろんなもの・事に対して発信できるようになった今、そのイメージで強い言葉で自分の意見を主張する人がいる発端の1つなのかな、と想像しています。
自分の意見を主張する事は大切だとは思うんですが、アドバイスしたがる人の言ってる事も自他境界が曖昧な人も、見たり聞いたりしているとすごく疲れる。

このyoutubeでは「ニュースに疲れるという意見が多く出てるけど、そういった人たちはそのニュースに対してされているコメントも一緒に見ていて、それを見てしまう事で疲れている可能性がある」というような事を話されていて「なるほど!」と思いました。そして

「自分の意見を持つ前に人の意見を聞くと、思わず同意・共感しちゃうけど感情自体を操られている可能性もある」

というような事を話されていてめちゃめちゃ同意しました。
これがセルフ支配の発端の1つかな?と思いました。

以前の記事で書いた

「不安定な状況に耐えられない時、人は絶対的な支配を求めることがある」という本に書かれていた言葉は「不安定な状況に耐えられない時」じゃなくて「ちょっと疲れていて頭が回らない時」でも「軽い支配」を受け入れてしまっているんじゃないか。

「感情自体を操られている可能性もある」という話のあと、宇治原さんがまた「平温な時の自分はいったいどんなものなんだ?とかさ」という話もしていて、やっぱり自分が支配を受けずにいるには「自分を知る」という事がキーになるというか土台として必要なんだよなぁ、と思いました。

アドバイスしたがる人って自己主張は激しいけど、それは「自分を理解している」とイコールではありません。
まず、求められていないアドバイスを人に言っている時点で自分自身がどう見られているか、思われているかを理解していないと思います。

ご意見番というのがかっこいいという日本人独特の感覚があって、SNSといういつでもコメントが出来て、コメントが見れる環境があって、自分の意見を持つ前にコメントを見てしまう事で意識が操られて平温な自分もわからなくなって、知らず知らずに影響を受けて操られたままコメントして、それを見た人がまた影響を受けて、という負のループが起きてるのかなぁと思いました。

疲れてるんだろうな。脳が。
そうなる前にちゃんと「平温な自分」を取り戻す時間を作る習慣をつけないとな、と思いました。


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