そこに、在ってくれたことを
映画『アザー・ミュージック』を観て、ずっと考えていた。
それは、ニューヨークにあった名物レコード店OTHER MUSICのドキュメント。20年余りで数々の伝説を残していて、店員さんも常連さんもディープな音楽オタク。ここで紹介されたから世に出たとか、「ここで紹介されたら”本物”」と語るミュージシャンとかがいて、音楽ファンの聖地だったばかりでなく、こここそがNY!と言われ続けてきたお店。そんなOTHER MUSICが数年前に閉店した。
音楽が配信主流になり、CDプレイヤーを持つ人が減り、OTHER MUSICの向かいにも大型店舗を構えていたタワレコが破綻した。OTHER MUSICではレコードは逆に売れたそうだけど、レコードっていくらも儲からないから、CDが売れなくなるともたなかったという話だった。
閉店にショックを受け、涙する人はいっぱいいた。街を人々がありがとうパレードして、盛大なさよならライブが行われ、その小さなお店がなくなることで、街の文化ごと消えたのだと、惜しまれていた。
わたしはというと、音楽ファンを名乗るほどではなく、第一OTHER MUSICを知らなかったし、(これはタワレコだが)NO MUSIC, NO LIFEとは言い難い。だが映画ファンなのでこの作品を観た。そして、これほど有名で、愛されたお店でもなくなるんだということに、想像以上に衝撃を受けてしまった。
コロナ禍で特に痛感させられていた、「いつまでもあると思うな」が親と金に限ったことではないのだと、また見せつけられたようだった。
好きで、続いてほしいものは、見ているだけじゃダメ。OTHER MUSICの経営者と、映画監督とが日本に向けた別撮りのメッセージで強調していた、「independentのお店を使ってください」は、念押しで胸に刻んだ。
しかしだよ、それだけで時代に立ち向かうことの限界は、もう、認めないわけにはいかない。音楽の場合、タワレコやヴァージンのメガストアができても、OTHER MUSICはそうしたチェーン店をCoolと思わない人に支持されてきたらしい。配信の時代になったら、AppleはメガだけどCoolだから受け入れられたという話があって、なるほどなぁって。
この映画を観たのは渋谷のミニシアター、シアター・イメージフォーラム。independentのレコード店をindependentの映画人が撮って、日本のindependent劇場で上映された。independentあってこそ出会えた映画。そういうところで、熱量をもって生み出されるものはやっぱり特別だ。
翻ってわたしは、ネトフリやアマプラも利用している。わたしの場合、映画館は別物なので、映画館に行く回数が減ったりはしないけど、普通は減るだろう。が、サブスクの良さも理解してるし、そんなのやめて映画館に行けと他人の袖を引く気もない。
シアター・イメージフォーラムからの帰り道、どうやったらindependentが生き残れるのか考えてしまった。
OTHER MUSICも逆風に手をこまねいていたわけではなく、時代に合わせた試みもあった。持ちこたえようと、経営者は無報酬で頑張りもした。その末に閉店を決めるのだが、例えばニューヨークにごまんといる大金持ちに出資してもらうとか、企業に身売りするとか、あるいはすごい手腕の人を入れて経営を改革するとか、家賃の安い郊外に移るとか、生き残るだけなら道はあっただろう。でもそれではOTHER MUSICじゃなくなるんだよね。内情の諸々はわからない中での勝手な見方にすぎないが、本当に、仕方がなかったように思える。
ただ、そうやって、時代の淘汰…効率化、合理化、テクノロジーの進化の波で、OTHER MUSICほどのお店もなくなるならば、この先、わたしの好きなものなんてほとんど残らないよ。あぁ、それはぜんぜんハッピーなことじゃない。しかし世の中はあんまりハッピーを基準に動いていない。残念ながら、というべきか、お金基準だ。人々にハッピーを与えるものはお金にもなるので、だから時代は、わたしたちにハッピーをもたらすこともある。ただしそこにすら、即時性が求められるという世知辛さは加速するばかり。
「昔はよかった」ってセリフ、そんなわけないじゃん!って思うんだよ。女性の置かれていた立場ひとつに思いを致すだけでも、冗談じゃないって。なのにいつか、わたしもこのセリフを口にしてしまうのか。イヤである。
永遠に続いてほしい店や仕事はいっぱいある。アナログ好きなこともあって、ここだけは、これだけは変わらないでほしいとしばしば願う。現実にはそうはいかないのが常だとわかっているから、余計にそう願うのかもしれない。
思い入れたなにかを失うときのインパクトは大きい。アップデートという言葉はあまりに軽く感じられ、悲しかったり淋しかったり、ときに悔しかったり、どうしても、失ったという”点”にばかりに目がいってしまい、嘆く。自分を納得させるためにきれいにまとめにかかるわけではないが、いや、あるいはそうなのかもしれないという気もするが、つまりOTHER MUSICは、ある時代を全うしたんだよね。だから、そこに確かに在ってくれたという”線”を見るべきなんだよね。敬意を持って、見送ることも覚えなくては。
OTHER MUSICがあった20年間、そこが居場所だった人、目標とした人、OTHER MUSICがあったから出会えた音楽や人やカルチャーやそれらからの刺激を、あの場所だけのグルーヴを、思い出以上のものとする人は数えきれないほどいるはず。時代もそれは奪えない。その中の何人、何十人、何百人かは、あたらしく何かを生み出したろう。スピリットは別の形で継がれているに違いない。誰かの挑戦は、そうやって、違う誰かに継がれていく。”〇〇の系譜”という表現が示すように、たとえ誰かのための挑戦じゃなくても、本物は自然と、継がれていくのだと思う。とりわけOTHER MUSICのように、好きを極める延長線上の挑戦は、触れる人の心をも躍らせるのだ。
好きなバンドが解散したとき、「どうせ辞めるなら結成しないでほしかった」と、好きな映画監督や漫画家が亡くなったとき、「続けられないなら最初から撮らないで/描かないでほしかった」と言い募るファンはいないだろう。
だからどうせなら、「昔はよかった」を言うではなく、在ってくれたことを祝福しながら、あたらしい挑戦にも心を躍らせたい。自ら挑戦できなくとも、せめて応援できる年寄りになりたい。
と、『アザー・ミュージック』鑑賞後、考え続けた割に、「そういう年寄りになりたい」とはバカっぽい締めくくりだけど、そう考える次第です。