みつば
ブリティッシュロックが響く室内で、僕は靴を磨いていた。心の安息はこの瞬間にある。僕は三十五歳で二十代の頃は靴は履き潰すものと思って気が向いた時に店に修理に出すだけだったが、昨年友人から靴磨きセットをプレゼントされてからは日課として取り組み、靴への愛着も深まっていた。最中、特にクリームを靴全体に広げる時にいつも色々なことを思い出す。それまで忘れてしまっていたようなことばかり。 プレイリストがレディオヘッドの「True love waits」に差し掛かり、そのメロディーはいつ
「何者であるか」というのは自分が自分をどう思っているのかではなく、他者から見て自分が何であるのかということの言い換えと言えます。 いわば、相対的な評価や実績や結果や信頼の結晶であり蓄積であると考えます。 同時に「何者になりたいか」というのは明確に設定されて、そこに向かって結果を出していけば自ずとそれに近付くでしょう。 例えば「頼られる人」になりたいとします。 こういう抽象的な物を目標とする場合、自分が「頼られてるな」と実感するか「頼れる人だな」と言葉で言われなければ実現は
観葉植物で埋め尽くされたそのバーはいつもタバコの匂いがした。店員の忍さんは常にチェゲバラのブラックを吸っていたし、そこに居る客の多くもまた何らかしらのタバコで灰皿を埋めていた。 「今日は和牛のたたきがあるよ」 そういって忍さんは僕の前にハイボールと灰皿を出した。 「じゃあ、それお願いします」 ジャパニーズウイスキーなんてのは嘘っぱちさ、死んだ元嫁がよく飲んでたから思い出して上手く作れないなどといつも適当なことを言って、忍さんは埃被った山崎や知多には脇目も振らず、ミクターズの
新年も少し馴染み始めた2月の上旬、乾いた空気の割れ目から白い息が出た。冬に関して思い出すことが増えて、随分と歳を取った気がしたが、所詮20数回しか経験していない冬だ。 美しいもの、楽しいこと、忘れられないものは不変でなく継続して何年も携えられるものがあるのなら、それは幸せなことだろう。いつか出会った音楽も映画も小説も暫く経つと忘れてしまったが、それでもいくつかの思い出はまだ冬の匂いと一緒に蘇ってくる。 このまま雪が積もるらしい。周りがそんなことを楽しげに話していたが、僕
手を離すともう二度と会えない気がした。足元の泥濘は僕を酷く憔悴させ、玲奈に少し休まないか、と今にも言い出しそうだった。 「もう少し、多分もう少し歩けば大きな通りに出るの。そしたらそこでバスに乗って、私達は帰るの」 僕はどこに帰るのか分からなかったが、ただ彼女に従って歩き続けた。 泥濘は実在していない。システムのことだ。僕は比較的まだ若く、システムを理解しているようで理解しきれていなかった。今もう一度あの時間をやり直せたらよりベターな生き方をできていたかもしれないが、あの頃
「今日も行かないか」と彼女をシリウスというバーに誘った。 「それはデートとして?それともホテルの前振りとして?」彼女は真剣な眼差しで尋ねる。 「もちろん両方さ。デートとホテルの関係っていうのは、ほら、表裏一体なんだ。芝刈りと芝生みたいに」 そう言って僕らはシリウスに行った。僕はビールを、彼女はトム・コリンズをオーダーした。しばらく経って僕がいつもより少し多めのビールを飲んでいることに気が付いて 「そんなに飲んで大丈夫?その、ほらできるのかも含めて」と僕の手の上に手を重ねて聞い
文章についての多くは十代の頃、高橋薫という作家から学んだ。僕は彼の小説の粗方を高校時代に読み、そしてその文体を理解し模倣しようと努めた。彼は余り広く知られたタイプの作家ではないし、文學界の新人賞を獲った『君の時差』とそれから出た何冊か以外は余り好調とはいえない売れ行きと作家人生を辿っていた。それでも僕は彼の私小説とされる『星の井戸』をこよなく愛し、何度も読み込んだ。僕が彼の作品を初めて手に取ったのは神保町の古本屋で殆んど投げ売りされていたラックの中でも一際誰かに読み込まれた
カーテンを開けると冷たい雨の降る月曜日だった。やれやれ、週初めからより一層ブルーになるなと感じながら僕は支度を始めた。ベットから出て歯を磨き、髭を剃って、トーストにバターを塗った。テレビは朝から数年前に引退したプロ野球選手の逮捕騒動について口うるさく話していた。僕はまた少し気分が沈んでテレビを消して、着替えた。家を出て、大学に着くまで大体三十分ほど掛かるので僕はゆっくりネジを巻くことにした。 都営新宿線はいつも通り混雑していて、蒸れた加齢臭が車内に立ち籠めていた。目的の
夕立が過ぎて、街路樹の落ち葉は湿っていた。踏むとギシギシと音を立てて、落ちる前まで鮮やかな黄色だった葉が通り行く人々の靴の汚れを含み、道路の黒と重なっていた。ここへ来たのは四年ぶりになる。最後に来た時と自分は今ではまるで別人な気がした。当時なかった髭を蓄え、喫煙習慣も身に付き、なにより今日の僕は一人だった。 話せば長いことだが、僕は21歳になる。17歳の時とはまるで違うが、充分まだ若くあるが当時のような無鉄砲さやは身体の底から湧き上がってくる何かはもう持っていない。 左
世界から綺麗事を除けば絶望しか残らない。生きることに執着すればどこまでも生きれるかと言えば、そうではないけど限りあるものだからこそなんとなく、だらって消費してしまうのは勿体ない。 2回目の年男を迎えて、人生とは自分から捉えた時間の単位でしかないと気付きました。どんな人生であっても自分というフィルターを通さずには経験出来ないので、どうせなら飛びっきりの綺麗事も救いのない絶望もきちんと自分という視点から捉えていきたいと思います。 優しくなれない日があっても、卑しい気持ちで溢
「あなたはよくそれで一体なんの目的が果たされるのか、と問うよね。世界の全てが精巧な歯車みたいにきちんと噛み合ってる訳では無いの。いいわね、全ては思ってより不十分で不安定なのよ」 長いこと夢を見ていなかったので、それを夢だと認識するまでに時間がかかった。見たことの無い灯台を携えた丘と青過ぎる芝、源氏物語について語り出すと止まらなくなる高校二年の時の古文の女教師とその台詞、随分と昔に捨ててしまったアコースティックギターを持った僕。 数年前、彼女と一度だけ街で出くわしたことがあ
御徒町に住んでいた。二十歳からの二年間程だ。特に住まいにこだわりがあった訳では無いので、当時勤めていた会社が用意した賃貸マンションを借り上げ社宅として使っていた。それまでに実家の外に一定期間住むということはあったが、初めての歴とした一人暮らしだった。以前友人や同僚らとルームシェアしていた根津にある荷物をまとめて、スーツケースとボストンバッグ一つずつに仕舞い込んで、僕はタクシーで引越しを完了させた。それから暫くして僕は虫垂炎に罹って数日入院をした。仕事もプライベートもようやく
雨が続いた中で突然晴れたのでその日のことをよく覚えてる。阪神の佐藤選手が新人の左バッターの最多ホームラン記録を75年振りに更新したその日、彼女はこの世界から消えた。 猫が死に際に人目につかないところでこっそり息絶えるように、彼女も自分がそこにいた痕跡をなるべく消すかのように一ヶ月前から退職届を出していたり、住まいの賃貸契約を解除していたり、行きつけの定食屋にも徐々に足を運ぶ頻度を下げたりとその兆候はあったらしいが、どれもこれも局地的な点としてしか存在せず、それを俯瞰で関連付
「お昼ご飯は美味しいステーキか難しい名前のパスタがいいの」 彩のオーダーはいつもこんな調子だ。 「将来は柔らかい女の子と抱きしめられたくなるような男の子が欲しいし、その子たちの誕生日には白過ぎないショートケーキを食べるのよ」
明日から戦争が起こるらしい。らしい、という言い方になってしまうのはどれだけ何を検索してもソースが出てこないからだ。東の国と戦うという噂もあれば、北から攻められるという噂もある。とにかく僕たちはその実態に迫ろうと努めたが、どこまで行っても何も出てこなかった。 「明日死ぬかもしれないわね」 昼休みにあかりがそう言った。 「民間人が死ぬようなものじゃないのかもしれない。例えば、猫と犬が戦争を起こすのかもしれないし、そもそも本当に戦争が起こるのかもわからないじゃないか」 「それも
「あなたの顔見ると無性にタバコが吸いたくなるのよ。決してあなたの顔が不細工だとかそういうことじゃないの。ほら、よく見ると目鼻立ちもくっきりしてるし、皺だって良い味してるじゃない。私が言いたいのはつまり、随分と前にやめたタバコのことを思い出すっていうことなの」 「僕は煙草を吸わないよ」 「それがどうってことじゃないのよ。どんな事実も私がどう感じるのかには関係ないのよ」 僕は諦めて彼女に煙草を勧めた。一緒に近くのコンビニまで行って、ピースライトと缶ビールを1ケース買った。家に着