議論に負けないためにはどうしたらいいだろう。 「他人を論破してもなにもいいことない!」なんて言われても、議論に負けるとやっぱり悔しい。自分から他人を追い込まないにしても、不愉快な思いはしたくない。 まず思いつくのは、堅牢なピラミッドストラクチャー。でも、議論なんて事前準備できるときもできないときもある。できるときは入念にピラミッドストラクチャーや想定QAをやっておけばいい。それはそれでいい訓練にもなる。 一方で、なんの準備もないときに、とりあえず負けない方法も探したい。
最近会社の各種アプリの連携や統合がすすんでいて、それにともなって、何度も認証作業をすることが増えているのですが、PINとかパスワードとかパスコードとか、混乱してきますよね。 特に、IT関連の部署の人は、自分たちはPINとパスワードを厳密に区別してつかっているので、例えば「アプリAのPIN」と「端末Bのパスワード」が混在した状態でも、「PIN」と言うだけで「アプリAのあるプロセスでつかうもの」と伝えたつもりになっています。厳密にはそうなのでしょうが、ユーザーにたいしてそれって
昨日四年半ぶりにiPhoneの機種変更をして、自分で設定の自動移行(アップルのクイックスタート)を進めたところ失敗してしまったため、手動でほぼ全てのアプリのインストールとログイン作業を行うことになりました。 面倒臭い作業で、結局6時間くらいかかったと思ったのですが、結果的に普段なかなかやらないアプリの断捨離ができて、結構満足しています。 ・すべてのアプリをダウンロードするのはとても面倒くさいため、そもそも必要なアプリしかダウンロードせず、画面がとてもすっきりする。 ・アプ
三宅香帆著『妄想とツッコミでよむ万葉集(だいわ文庫)』を読んでいる。僕が徘徊する本屋No.2の交通会館三省堂の入口の近くで、平積みの特集コーナーでPOPつきで紹介されていたもの。 若草の 新手枕を まきそめて 夜をや隔てむ 憎くあらなくに 万葉集は奈良時代の歌集だから、まだひらがなもカタカナも発明されていない。なので本当は万葉仮名(漢字の当て字)で書かれている。面白いのが「憎く」の当て字で、「二八十一」となっている。ここで「八十一」というのが「くく」つまり「九九」の当て字
仰々しいタイトルになってしまいました。 久しぶりにソシュールの解説を読んでいたところ、本論と関係のないところで躓いてしまいました。ソシュールは、言語記号をシニフィエ(概念)とシニフィアン(聴覚映像)に分けているのですが、「聴覚映像」というところ、引っかかりませんか? なぜ文字は含まれないのか? 渡邊十絲子著『今を生きるための現代詩(講談社現代新書)』という本に、なるほどと思える記述がありました。これも、この本の本論とは多少ずれた参照のしかたになるのですが、面白かったので
個人情報の取り扱いについて、某Faceb●●kにとても腹が立っています。 皆さんもお気づきの通り、普段全然調べないようなモノゴトを検索したすぐ後に、某Faceb●●kでそのモノゴトに関連する広告が出たり、もっとひどい時は、検索した企業の広告がそのものズバリ表示されたりします。 ただ、実は本当に嫌なのは、そういう情報の活用のしかたではありません(それもまあ気にはなるけど)。「この広告が表示される理由」があまりにも不誠実だからです。 例えば、僕はアラフォーのサラリーマンなの