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あいトリ 河村市長を「ナチスそのもの」発言の真相

 あいトリ論争に関連して、大村知事が河村市長を「ナチスそのもの」と言ったと、市長が怒っています。しかしそれは全くもって意味を取り違えたものです。

「大村知事「ナチスそのもの」」と報道

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 あいちトリエンナーレ開催期間中の2019年9月17日の大村知事の定例会見を受け、新聞記事が上記のように取り上げました。

記事前半では、大村知事が、会見で、河村市長が展示を問題視して公文書で展示中止を求めたことに対して「ナチスそのもの」と批判したとしています。

そして知事の発言として、「作品がけしからんと書かれているが、かつてナチスが退廃芸術と称して前衛芸術と現代アートを否定した歴史がある。誰もが認めるものしかやっちゃいけないというのはナチスそのもの」としています。

これ、前半と中盤で指していることが全然違うんですね。大村知事は河村市長の行動を「ナチス」と言ったわけではなく、中盤のように、「誰もが認めるものしかやっちゃいけない」ことがナチスそのものだと言っています。

会見での知事の発言の流れは

会見中、大村知事は、その前の週に発表した「知事の考えのまとめ」について、記者から「なぜこのタイミングで考えをまとめたか」質問を受けました。それに対し知事は、「事実関係をしっかり検証し情報公開したい」との意図であることを説明、関連して同じく前の週にあった名古屋市議会での田山議員の質疑について「事実に反する」「いくらなんでも酷すぎる」と批判しました。

田山議員発言

過去に問題となった展示作品が実行委員会運営会議に諮られることもなく、議論もされずに形式上実行委員会会長の大村知事の判断で展示が許可されていること、展示作品が議論を呼ぶであろうことが予想され、反発を感じる人への配慮や作品の見せ方の工夫について十分検討が尽くされたとは言い難い状況であったことが、1点目の問題である。(令和元年9月定例会

 特に太字部分を事実無根と大村知事は強く批判しました。

そして赤線への発言へとつながります。

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この時知事が読み上げたのが、その前の週に出した「知事の考えのまとめ」です。

3.トリエンナーレの意義について(「知事の考えのまとめ」より)
トリエンナーレは、多様なアートに直接触れ、あるいは体験することによっ
て、文化芸術の振興、浸透、地域の魅力の向上などを図るものです。
いうまでもなく、芸術の価値に対する評価は百人百様です。したがって、
もが芸術的価値を認めるものだけの展示を認めることになれば、こうした展示展は成立しません
。したがって、テーマや展示の選択など芸術的内容に関わる点は、芸術分野の専門家を中心としたメンバーで選ばれた芸術監督やキュレーターによる議論・検討を経て決定されています。愛知県は、施設や財政面、事務局スタッフの人的支援といった観点で中心的な役割を担っていますが、愛知県や私が芸術的な価値について当否を判断して展示内容を決定したものはありません。芸術的価値に対する評価については、実行委員会会長あるいは首長といえどもそれを評価・判断して決定すべきでなく、展示内容の取捨選択は最終的には芸術分野の専門家に委ねるべきで、実際にそのように進めてきました。 

 これを読むと田山議員の発言がいかに事実を無視した勝手な言い分なのかが分かりますね。

 なお、大村知事の「芸術的価値に対する評価については、実行委員会会長あるいは首長といえどもそれを評価・判断して決定すべきでなく、展示内容の取捨選択は最終的には芸術分野の専門家に委ねるべき」という発言を「逃げている」「責任をとっていない」と理解する方が後を絶ちませんが、そもそも原則として公権力がこの表現はいい、この表現は悪い、と判断すること自体、憲法や法に触れる行為(いわゆる「検閲」に該当)なので、行政はそれをしない、ということになります。

知事の発言の該当部分は47:08あたりから3分程度です。

退廃芸術とは

知事の発言の「退廃芸術」は、ナチスがやった文化政策の一つであり、ナチスの判断で芸術を「大ドイツ芸術展」と「退廃芸術展」に分けた施策のことを指しています。

退廃芸術展とは

 ナチスは、文化政策のひとつとして、近代芸術の作品を国内の美術館から押収し、文化の退廃を招く芸術とみなして弾圧の対象としました。ナチスは、押収した作品の一部で「退廃芸術展」を開催し、ひとびとに向けて「退廃芸術」の劣悪さを示そうとしたのです。

 退廃芸術と烙印を押された作家の中には、ピカソ、ゴッホ、ゴーギャン、シャガールなどもいました。

大ドイツ芸術展

ナチスが高い評価を与えたのは、古典主義的な芸術でした。「退廃芸術」展のいっぽうで、ナチスは古典主義的で写実的な作品を集めた「大ドイツ芸術」展も開催しています。この展覧会は1944年まで続けられました。

新しいドイツを実現するために「血と土」「アーリア人第一主義」「反ユダヤ主義」のイデオロギーを体現する純正ドイツ芸術を民衆に推奨し、展示作品は牧歌的な風景画、大家族や農村の労働を描いた風俗画、優美で健康的な裸体画、記念碑的な巨大彫刻などで、前時代的な古典主義的写実ばかりであったとされています。

「ナチスそのもの」発言との関係

 このように、公権力が表現に対していい・悪いの判断を加え、公権力が「いい」と思う作品を推奨していったのがナチス。「誰もが認めるものでなきゃやっちゃいけない」としたのがナチス。

 その後ナチスがどのような道を歩んでいったかは、、ご存知の通りです。

 そしてそのことをやってはいけないことだと、大村知事は強く思っているわけですね。歴史を見れば当然の考えだと思います。 

知事は報道の訂正を要求

 大村知事は、新聞社に対して抗議・記事の訂正を求めました。

報道は、河村市長の行動ではなく、公権力が表現に介入することを「ナチスそのもの」と言ったので、大村知事の発言の意図とは全く異なりますね。

私が思う市長とナチスの類似点

 大村知事の発言の意図とは違いますが、私は、河村市長とナチスがやっていることに類似点があると思っています。

 河村市長とナチスの類似点は、政府、行政など、公権力を持つ立場の人が、表現に対して「これはいい」「これはダメ」と判断し、公権力の意に沿うものだけを、公的機関や公金支出OKしようとするものです。

 これが進めば、国を批判する表現は萎縮させられ、国家を高揚する作品だけがどんどん認められていくことになります。表現の統制です。それを市長自らがやっている。ナチスだと言われても仕方がないことをやっていると私は思います。

まとめ

 このように、「ナチスそのもの」発言を報道が意図を取り違え、市長も意図を取り違えて怒っています。河村市長はナチスの文化政策も知らなかったのではないかと思います。

 近代憲法において、人権が公権力からの解放として獲得されてきたものであること、そして先の大戦で表現の統制がどういった結果を生んできたかを考えると、河村市長の言動は、不適切であると言わざるを得ませんね。

 また、河村市長はいまだにあちこちで大村知事から「ナチスと言われた」と吹聴しています。知事も公に否定しているのに聞く耳を持たない。もうこれは意図をもって確信犯的に吹聴していることは間違いないです。