あいトリ 「表現の自由」とは(作成中)
あいちトリエンナーレ2019において、企画の一つである「表現の不自由展・その後」の展示内容をめぐり問題になりました。
作品の内容から、「表現の自由」についても議論になりました。
「表現の自由」と言うと、「何でもアリの自由」の権利の主張、と受け止め、「知事が何でもありの自由を認めて展示を許可した!」として怒っている方がいます。
しかし、それは、本来の「表現の自由」の意味とは異なります。
「表現の自由」とは何でしょうか。
日本国憲法に定められた「基本的人権」
日本国憲法は、国の決まりの中で最も大切なもので、日本のすべての決まりや法律は憲法に従って作られています。(NHK for school)
「表現の自由」は、日本国憲法に定められた「基本的人権」であり、「基本的人権」の中でも最も重要とされるものです。
日本国憲法の三大原則
日本国憲法の三大原則として、
・国民主権・・・・・・国の政治のあり方を国民が決めること
・基本的人権の尊重・・国民誰もが人間らしく生きる権利を持つ
・平和主義・・・・・・戦争を二度と繰り返さない
があります。
そのうちの「基本的人権」
憲法第21条
日本国憲法では、「表現の自由」は、憲法第21条に定められています。
第二十一条
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
この「表現の自由」は、「個人として自由に考え、意志や意見、事実などを表明する権利」です。
(解説)本条の核心は、既存の概念や権力のあり方に異論を述べる自由を保障するところにあるといってもよいでしょう。そこに国家が予め介入してコントロールすることは許されません(検閲の禁止)。公権力が思想内容の当否を判断すること自体が許されていないのです。(日本国憲法の逐条解説 第21条)
「表現の自由」は、基本的人権を構成する主な権利として、特に重要なものだと考えられてきました。
表現の自由が重要な理由
表現の自由は,2つの重要な価値を備えています。
・自己実現の価値
個人が表現活動を通じて自らの人格を発展させるという個人的な価値。
何かを表現したい、知りたいという欲求は、もっとも人間らしい、私たちの本質に関わるものなのです。「その人」らしさという意味では人間の尊厳に関わるものです。
・自己統治の価値
表現活動によって国民が政治的意志決定に関与するという民主政に資する
社会的な価値
そもそも民主主義は、何が正しいかわからないからこそみんなで議論しお互いの考えをぶつけ合って、もっともよいものを見つけだそうとするものです。そこでお互いが自由にものを言えなければ成り立たないのです。
出典:表現の自由はなぜ重要なのか~国民主権を支える自由
「表現の不自由展・その後」で脚光」~
中高生のための憲法教室 第12回 <「表現の自由」はなぜ大事?>
個人の尊厳であるだけでなく、民主主義の本質を為すものなんですね。
そしてもう一つ大事な側面があります。
浦部法穂の「大人のための憲法理論入門」第7回 表現の自由の重要性がとくに強調されるのはなぜか?
表現の自由というものが、最も権力によって傷つけられやすい性質の自由であり、人権のなかで一番不当な制限を受けやすいもの
もちろん、この「表現の自由」が、「法」や下記に述べる「公共の福祉」に触れない限り保証されるという条件が付くことは、言うまでもありません。
「表現の自由」が制限されるとき
「公共の福祉」とは
人権は当然尊重されるべきものですが、他者に迷惑をかけない(他者の権利を侵害しない)範囲で尊重されます。他者の権利を守るために、それを侵害する表現の自由を制限する、ということが起きます。個人個人を尊重した結果、人々の権利が場合により制限される」ことを「公共の福祉」と言います。(公共の福祉とは?人権が制限されるパターン3つ)
「公共の福祉」のよくある勘違い
公共の福祉=社会秩序を乱さないこと、と思う方が多いようですが、それは違います。
誤解しやすいこととして、「公共の福祉=社会秩序のために人々の権利を制限すること」と捉えられてしまうことがありますが、これは正しい理解ではありません。
これでは社会の秩序が個人の権利よりも上位にあるという考え方になってしまうからです。
また、公共の福祉=多数決に従う、と考える方もいるようですが、それも違うようです。
皆さんは「公共の福祉によって人権が制限される」と聞くと、どのようなことを思いうかべますか。「社会の秩序や平穏という公共的な価値のために、個人はわがままをいってはいけない」というイメージを持ちませんか。または、「多数の人の利益になるときには、少数の人はガマンすべきだ」という意味だと感じませんか。
実はこれらの理解は、正しいものとはいえないのです。
仮に「社会公共の利益」といった抽象的な価値を根拠に個人の人権を制限できるとすると、「個人よりも社会公共の利益の方が上」ということになってしまいます。これでは「個人が最高だ」とする個人の尊重の理念に反してしまうのです。
個人が最高の価値であるのならば、その個人の人権を制限できるものは別の個人の人権でなければなりません。つまり個人の人権を制限する根拠は、別の個人の人権保障にあるのです。(「公共の福祉」って何だろう?)
表現の不自由展の作品は
Twitter上で意見を交わすとき、あいちトリエンナーレの件で「表現の自由が守られた」ことを主張すると、「何をやってもいい自由を主張している」と勘違いされることがあります。
「表現の不自由展」に展示された作品を、日本侮辱作品だと感じる方の意見です。作家の意図や背景を知ればそうでないことが分かるのですが、それでも「傷ついた」「不快だ」と感想を持つ方がいらっしゃることは理解していますし、それは受け取る方の自由です。
あいちトリエンナーレのあり方検証委員会では、この「不快」という感情が、「公共の福祉」として表現の自由を制限するものになるのか、法的に検証しています。
単に多くの人々にとって不快だということは、展示を否 定する理由にはならない。芸術作品も含め、表現は、 人々が目を背けたいと思うことにも切り込むことがある のであり、それこそ表現の自由が重要な理由。
また、作品自体が違法なのでは、と言う意見もあるようですが、それも「あいちトリエンナーレのあり方検証委員会」では、このように検証されています。
表現の自由が法により制限されるケースは稀であり、今回の展示が「不快」だからと言って、法的にはそれが展示が許されない理由ではないと言っています。
また、最終的に文化庁から補助金が交付されたこと、減額があったにしても文化庁から違法作品であると指摘がなかったことからも、展示作品は違法には相当しないと言えると思います。
私個人は、作品は好きではありませんし、自分が作者と同じことをしようとは思いません。しかしだからと言ってその表現をするなとか、公的機関で展示するな、税金を使うな、とは思いません。自分は支持はしないけど、その人なりの表現形態として、それはそれ、と考えます。
本物の愛国団体「一水会」さんは、作品は支持しないながら、表現の不自由展についてこのような発言をしています。
作品が不快だ!侮辱だ!と決めつけのではなく、対話によって相手を理解することが大事ですね。そうした建設的な議論をして表現のあり方を考えるのが、表現の不自由展のコンセプトでした。
作品が嫌いだからと言って、公金を出すなと言う意見がありますが、公金を出すなということは、公権力が表現に介入する(作品のいい・悪いを判断する、作品によって展示の可否や公金支出の可否を決める)プロセスを取るべきだという主張につながります。これは、行政が憲法に触れる行為を行えと言っていることになります。
そして、知事は、作品についての「何でもありの自由」としての表現の自由ではなく、「人権」としての表現の自由を守るという、法の原則を守る行動をとったわけです。