あいトリ 問題?作品は違法だった?

 あいちトリエンナーレ2019の一企画である「表現の不自由展・その後」に展示された作品が違法なのではないかと言われているようです。

 そのため、大村知事が「法を守った」のではなく、「法を破った」という見方があるようです。どういったことでしょうか。

違法であるという判断はされていない

 展示作品は、あいちトリエンナーレのあり方検証委員会でも憲法学者もいれて検証されており、法的に問題ないとされています。
 また、弁護士会や憲法学者など、法の専門家からも、作品が違法であるという声はほとんど上がっていません。

 作品が本当に違法・違憲なものなら、展示内容が明らかになった後に最終決定された、文化庁からの補助金交付の際にも、そのような指摘があってしかるべきです。現時点でそのような指摘がない時点で、作品の違法性・違憲性はないと見てよいと思います。

 また、違法・違憲であるかどうかは、最終的には裁判所の司法判断によりますが、現時点で司法判断が出ているものは一つもありません

 しかしながら、作品そのものや、作品を展示したことが憲法に抵触するというような意見が出回っているようです。

 参考までに、憲法の何条にどう反していると言われているか、そしてそれに対する一般的な法の見解を見ていきたいと思います。

憲法第1条 天皇は象徴である

天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。

【リコール賛成派の主張】
天皇は日本国の象徴だから、天皇を尊重しないのは憲法違反!

【実際は】
 第一条は「国民主権」を謳った条文です。

 日本国憲法成立の背景からいうと、天皇が「象徴」であるとは、「大日本帝国憲法」で規定されていた、天皇が持つ「統治権」などを取り除いたもの、ということになります。

 国民主権とは、天皇の地位さえも国民が決められるという意味であり、「象徴」である天皇を、「象徴である天皇を敬え」と、お上から強制されるものではないことを指します。

 したがって、天皇を尊重しないことによる憲法第一条違反は、現憲法には存在しない考えということになります。

明治憲法では天皇は主権者であり、国家神道と結びついた象徴でもありました。それに対して新憲法の下では、天皇は象徴でしかないことを明確にし、しかも主権が国民にあることを宣言したのです。
(中略)
天皇制にどのような意味づけを与えるかはまさに主権者たる国民の「総意」、つまり私たちの意識の問題です。
(中略)
この条文は、私たち国民が天皇の地位すらも決めることができる主体なのであって、けっして「天皇を象徴として敬え」と強制されるような客体ではないことを示しています。一人ひとりの国民がどのように主体的に生きることができるか、それがこの憲法の価値を決めるといっても過言ではありません。(日本国憲法逐条解説

憲法第12条 権利の濫用・公共の福祉

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

【リコール賛成派の主張】
日本を侮辱するようなヘイト行為は「表現の自由」という権利の濫用であるし、常に公共の福祉のために利用する責任を負うという憲法の趣旨に反する。

【実際は】
「権利の濫用」とは:他人の権利を侵害するような権利の使い方
「公共の福祉」とは:ほかの人の人権との衝突を調整するための原理
ベネッセ定期テスト対策サイト 中学社会

 そもそも作品が「日本ヘイト」であるとは、事実ではなく、一部の人の主観に過ぎません。そもそも作品の作者にも日本侮辱の意図はありません。したがって、作品が「日本ヘイト」であるとして、権利の濫用や公共の福祉に反するという考え自体、無理があります。

 また、憲法解釈では、「権利の濫用」「公共の福祉」という言葉だけで表現の自由という権利を制約できるものではない、とされています。

 制約することの目的がどれだけ重要なのか、あるいはそれによってどこまで効果があるのか、そういうところを厳密にチェックして、そのチェックを
クリアできて初めて公共の福祉による制約という理由が成り立つんだ
、という形で説明します。12 条で権利の濫用を認めないとか、公共の福祉による制約があるというのはそのとおりなんですけれども、あの条文があることをもって表現の自由一般が制約可能になるというわけではない、ということになります。
2019年10月25日 横大道聡教授 日本記者クラブ会見

 「公共の福祉」が、権利と権利の衝突の調整をするものであるということについて、個人の人権を制限できる根拠は、別の人権の保障であるとする、詳しい説明があります。

 皆さんは「公共の福祉によって人権が制限される」と聞くと、どのようなことを思いうかべますか。「社会の秩序や平穏という公共的な価値のために、個人はわがままをいってはいけない」というイメージを持ちませんか。または、「多数の人の利益になるときには、少数の人はガマンすべきだ」という意味だと感じませんか。
 
 実はこれらの理解は、正しいものとはいえないのです。

  仮に「社会公共の利益」といった抽象的な価値を根拠に個人の人権を制限できるとすると、「個人よりも社会公共の利益の方が上」ということになってしまいます。これでは「個人が最高だ」とする個人の尊重の理念に反してしまうのです。

 個人が最高の価値であるのならば、その個人の人権を制限できるものは別の個人の人権でなければなりません。つまり個人の人権を制限する根拠は、別の個人の人権保障にあるのです

  私たちは憲法によって人権を保障されていますが、当然のことながら、他人に迷惑をかけることは許されません。たとえば、いくら私たちに「表現の自由」が保障されているといっても、他人の名誉やプライバシーを侵害してまで表現する自由が無制約に認められているわけではないのです。どのような人権であっても、他人に迷惑をかけない限りにおいて認められるという制限を持っています。

 私たちが社会の中で生活をしていく以上、ときに、「ある人の表現の自由vs別の人の名誉権やプライバシー権」のように、人権と人権は衝突します。そしてその衝突の場面においては相手の人権をも保障しなければなりませんから、自分の人権はそのかぎりで一定の制約を受けることになります。

 すべての人の人権がバランスよく保障されるように、人権と人権の衝突を調整することを、憲法は「公共の福祉」と呼んだのです。けっして「個人と無関係な社会公共の利益」というようなものではありません。また「多数のために個人が犠牲になること」を意味するのでもありません。
 「公共の福祉」による人権制限の問題を考えるときには、対立する利益をつねに具体的に考えなければなりません。「誰のどのような利益を守るために人権を制限するのか」をしっかりと意識しないと、「国益」というような抽象的なものでの制限を許してしまいかねないからです。仮に「国益のため」という理由が語られたときには、その「国益」の中身が具体的にどのようなものなのかを考えてみることが必要です。
法学館憲法研究所 中高生のための憲法教室 
 第9回 <「公共の福祉」ってなんだろう?>
) 

 あいちトリエンナーレのあり方検証委員会でも検証され、報告結果にまとめられています。

・表現の自由は重要な人権であり、制限が許されるためには、それに見合った理由(どのような意味で「公共の福祉」に反するのかを明確に特定する必要がある)が必要
・漠然と「公共の福祉」に反すると思うとか、一定範囲の人々が不快に思うという理由では表現の自由を制限することはできない
・仮に「公共の福祉」に反すると思われる表現があっても、法令上の根拠がない限り、規制することはできない

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 なお、実際に表現の自由が公共の福祉によって制限される例は、下記のような内容です。

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「公共の福祉(特に、表現の自由や学問の自由との調整)」に関する基礎的資料 基本的人権の保障に関する調査小委員会(平成 16 年 4 月 1 日の参考資料)

 よって、「権利の濫用」「公共の福祉」と言う言葉だけでは法に抵触するとは言えず、法令上の具体的な根拠がない限りこれらに抵触するという考えは当てはまりません。

 また、そもそも作家に侮辱の意図がない以上、これらに該当しません。

憲法第89条

公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。

【リコール賛成派の主張】「公の財産の支出又は利用の制限」を、あいちトリエンナーレの公金支出のことに当てはめて、憲法第89条違反としているようです。

実際は
憲法第89条は、前段は政教分離、後段は私学助成が主に問題となります。あいちトリエンナーレは、慈善、教育、博愛の事業いずれにも当たらず、この条文は該当しません。

本条前段は、政教分離原則(20条)を財政面から徹底させたものです。戦没者遺族会のように宗教団体でないものが「宗教上の組織若しくは団体」にあたるか問題になりますが、最高裁は、この規定の「組織」「団体」を、特定の宗教の信仰、礼拝または普及等の宗教的活動を行なうことを本来の目的とする組織ないし団体に限定し、遺族会の宗教性を否定しています(箕面市忠魂碑訴訟)。しかし、本条は、宗教上の事業・活動への公的財政援助を禁止したものであり、その事業・活動を行なう主体が厳密な意味での宗教団体でなかったとしても、その宗教的活動への公金支出は禁止されていると解すべきです。
後段に関連して、現在の私学助成は「公の支配」が及んでいないため違憲だという考えもありますが、後段の趣旨を、公金の乱費防止のために公の支配を要求したものと解すれば、現在行なわれている会計報告のような緩やかな監督でも「公の支配」にあたり許されることになります。
憲法の条文を眺めてみると、89 条で公金の支出が禁じられる場合が定められております。
そこでは、「慈善、教育若しくは博愛の事業」で、公の支配に属しないようなものに公金を支出してはならないとありますけれども、芸術への助成はここには該当しないということで、お金を出すことが憲法で禁止されるということはないということになります。
2019年10月25日 横大道聡教授 日本記者クラブ会見

刑法第92条 外国国章損壊(作成中)

外国に対して侮辱を加える目的で、その国の国旗その他の国章を損壊し、除去し、又は汚損した者は、二年以下の懲役又は二十万円以下の罰金に処する。
2 前項の罪は、外国政府の請求がなければ公訴を提起することができない。

【リコール賛成派の主張】

【実際は】

憲法は大事な条文が先に来る?

 これ、たまに主張する人がいました。憲法第一条が「天皇は象徴」から始まるから、何よりもそれを大事にするべきだ、と。これは、憲法学では全く言われていない、全くのデマです。

 憲法において大事なのは、条文の順番ではなく、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義という3つの基本原則です。

国民主権」とは、国の政治のあり方を国民が決めること。18歳以上のすべての国民が選挙権を持っています。投票することで政治に対する意見を示すことができます。「基本的人権の尊重」とは、国民だれもが人間らしく生きる権利をもつこと。「基本的人権」は一人ひとりが生まれながらもっています。全ての人が自分らしく生きられるよう、年齢や性別、障害のあるなしに関わらず、健康で文化的なくらしを送ることができます。もう一つが「平和主義」。日本は過去に戦争をし、多くの尊い命を失いました。悲惨な戦争を二度と繰り返さないという強い決意のもとに平和主義の原則は掲げられています。(NHK for school 日本国憲法3つの原則

まとめ

 このように、あいちトリエンナーレ・「表現の不自由展」において様々な違憲・違法論がありますが、実際に司法判断をされたものでもなく、憲法論に照らし合わせても間違った内容であることが分かっています。

 怖いのは、実際に個々の事案について詳細な司法判断が必要とされるほどの内容にもかかわらず、違憲・違法であると「思う」という私見が元になって、実際に違憲・違法であるかのような情報が出回ってしまっていることです。

 そして、もう一つ留意すべきは、ここで述べたあいトリを違憲・違法とする意見は、改憲論者が目指している「自民党憲法改正草案」に通じる内容であるということです。

 この国は前時代の反省を生かして大日本帝国憲法を日本国憲法に改正しましたが、自民党憲法改正草案は大日本帝国憲法の考えに近い内容になっています。

 「どこがいけなかったの?大日本帝国憲法」にて、大日本帝国憲法と日本国憲法の違いが分かりやすく書いています。

 この国が全体として前時代に戻ろうとしていること、そして、違憲・違法であるという論を、一斉に行っていた人たちがいて、その思想を広めようとする動きがあったことに、怖さを感じます。