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夜空のアクアリウム

 夕刻のコーズウェイ。うだるような暑さでまだ陽は高く、行く先にはゆわゆわと陽炎が立っている。
 土手道はいちおう舗装されているが、薄く敷かれたアスファルトは雑草に押し上げられ端がめくれており、あちこちひび割れていた。高すぎる気温のせいか踏みしめるとかすかにやわい。陽炎は別名逃げ水などというが、この暑さでは溶け出した石油が本当に水のようにしみ出ているかもしれない。
 そんなことを考えながら、汗ではりつくシャツをはがしはがし歩いていると、本来なら近づけば消える陽炎がぽちゃんと音を立てた気がした。視線を下げると透明に波打つ水。足が浸かっているはずなのに不思議とその感覚はない。水の底は浅くアスファルトの裂け目が見えている。そしてその裂け目から妙なものが生えて水面から飛び出していた。
「チンアナゴ……?」
 水族館で見たことがある。海底から可愛らしく半身を出してゆらゆらと揺れていたのを思い出す。けれどもその隠れた下半は硬いアスファルトではなくやわらかな砂の中に埋もれていたし、半身出ているといってもそこは水中だ。エラで呼吸をしているのだから、こんなふうに空中にはみ出していてはいけない。
 とっさに水をかけようと足元のそれをすくってみたが、椀形にそろえた手はむなしく空を切るだけだった。そういえば、と、鞄を開けてペットボトルを取り出す。海水ではなくミネラルウォーターだが、何もしないよりはマシだろう。
 すると、キャップをねじったあたりで背後から声をかけられた。
「そんなことしたら溺れてしまうよ。」
 振り向くとそこには少年が立っていた。後ろ手を組み、少し身をかがめてこちらの手もとをうかがっている。チンアナゴを救おうとしゃがんでいたので見上げる形になり、背の高さはわからなかったが、よく見ると大人かもしれない。中性的な顔立ち。けれども、最も目を引いたのは肩くらいまでまばらに伸びている髪だ。
(白髪……いや、銀髪?それとも、)
 虹色。というのが相応しいかもしれない。
 プリズムのように太陽光を取り込んで七色の光を放っている。髪の一本一本が極細の光ファイバーにでもなっているのだろうか。
 まばゆい光と突然声をかけられたことに驚き絶句していたからか、少年はくすりと笑いながら言葉を続ける。
「急に声をかけてごめんね。だけど緊急だったんだ。その子の命に関わる問題だからね。」
 細くて儚げな指先で示すのは件のチンアナゴ。少年の声に応えるようにクリクリとした瞳をこちらに向けている。魚の表情について考えたことなどなかったが、困った顔をしている気がした。
 しかしながら解せない。魚に水をかけて何を困ることがあるだろうか。ましてや命に関わるなど、
「逆じゃないか。このまま放っておく方が命に関わるだろう。早く水をかけないと……」
 素早くペットボトルのフタを開け中身を傾ける。が、その手はすぐに止められた。少年の白い手だ。そのひんやりとした温度にぎょっとする。
「君にも身に覚えがないかい?」
 いつのまにか隣にしゃがみこんでいた少年。虹色の光が沈みゆく夕陽とあいまってまぶしい。そのせいか彼の輪郭はとても曖昧だ。その言葉も。
「君にもわかるんじゃないかな。急に呼吸ができなくなる感覚。今いる場所で唐突に溺れるんだ。」
 それが例え話ならわかる。慣れ親しんだ居場所が何かのきっかけで突然息苦しくなること。些細な何かしらが、あるいはその積み重ねが、肺に穴を開け酸素が漏れ出てしまう。挙げ句、その風穴に空気が通るたびに痛みが伴う。
 だけど、チンアナゴの場合は例えではなく現実問題だ。エラ呼吸は水がなければ成り立たないし、魚のからだは空気にさらされれば干からびてしまう。その上この暑さだ。人の体温でも火傷してしまうと言われている魚が、こんな酷暑に耐えられるはずがない。
 慌てて少年の手を振り払おうとしたが、細くて生っ白いくせに力が強く、振り払うどころかびくともしなかった。抗議しようと開いた口はもう片方の手に塞がれる。
「落ち着いて。大丈夫だよ。ここには逃げ水があるだろう?」
 逃げ水。陽炎の別名。追いかけても追いかけても追いつけないという意味だ。近づけば消えてなくなってしまう。
 しかしながら、感覚はないにしても周囲は浅い水で満たされている。言われてみればチンアナゴも苦しそうにはしていない。こちらと少年を交互に見ながらオロオロしている。
「大丈夫、ケンカしてるわけじゃないよ。」少年はチンアナゴに声をかけると両手を離し、「逃げ水は必要とする者からは逃げない。逆に逃げ場になってくれるんだ。君も、」
 そこまで言うと先ほどまで口を塞いでいた手で頬をなでてくる。やはり冷たい。魚みたいな温度だ。
「君も逃げたいの?」
 やさしい表情をしている。夕陽はもう沈んでいるのに、プリズムの髪はいまだ七色の光を放っている。
「もしも逃げたいのなら、」
 その声がやわらかく耳に浸透するのと同時に、足元の水も温度を持ちはじめた。先刻までの灼熱を癒す冷たさ。逃げ水が本当の水になる。
「もしも逃げたいのなら、僕のアクアリウムに来るかい?」
「アクアリウム?」
 オウム返しの疑問符に彼はこくりと頷いた。そして両手を空に向けて立ち上がる。日は沈み辺りはすっかり暗くなって、夏の星座たちが煌めきはじめていた。
「夜空のアクアリウムだよ。太陽系が天の川銀河にあるおかげで、夏の夜空はひとときのアクアリウムになる!」
 その言葉を合図に、ぱちん!と弾けるように天の川が空を渡り、その流れに沿ってとんでもない数の魚たちが滑り込んできた。魚群というよりはサーカスの一団のようだ。カラフルで鮮やかで楽しそうな。
 すると、足元のチンアナゴもアスファルトからしゅるんっと抜け出し空へと昇っていく。
(地面に隠れてた部分、思ったより長いんだな。)
 そんなことを思いながらぼーっと見つめていると、上昇していた視線がふいに遮られる。目の前には虹色の髪。風に揺れてまるでオーロラのようだ。
「さぁ、どうする?夏の夜の夢みたいに儚いけれど、一晩。逃げ水よりは長持ちするよ。」
 差し出された手を取らない理由が見つからなかった。灼熱のコーズウェイを歩いていた時、たしかにぼくは溺れていたのだ。
 得るものがあってもままならない日々。失ったもの。地に足のつかない体。心に空いていく小さな穴。
 よくある人間関係のトラブルや仕事の悩みだ。そんなの誰にでも起こり得ると言われればそれまでのこと。何もかもうまくいく人生なんてあり得ない。
 けれど。
 苦しい、と。溺れていると。逃げ出したいと。そう言ってもいいのだと、目の前の少年とあのチンアナゴがおしえてくれた気がする。
 たとえそれが一夜の夢だとしても。
「……連れていって。逃がしてよ、ぼくを。」
「もちろん。君が望むなら。」
 少年の手を取るやいなや、ぽーんと空中に放りだされ、まるっきり重力を感じなくなった。風船のように浮きあがる身体を、今度は下から突き上げられる。
 気づくとぼくはイルカの背に乗っていた。
「乗り心地はどうかな?」
 少年の声だ。彼はいつのまにか七色のイルカに姿を変えていた。尾ヒレを蹴り出しビュンッと力強く空を昇っていく姿に、先ほど手を振り払えなかった理由を見つけて納得する。
 しなやかな身体が滑るように空を泳いでいく。
 乗り心地はどうかって?
「最高だよ!銀河を泳ぐなんてすばらしい。とても自由な気分だ!」
 青から藍へ色づく夜空。ミルキーウェイの名に相応しくやさしい煌めきの天の川は、潜ると金平糖のようにカラフルな星々がそれぞれ淡い光を明滅させていた。イルカはその隙間を縫うように進んでいく。
 少し行くとアジの魚群がいた。渦を描いたと思えば急降下、急上昇。つややかな銀のからだが動くたび、星の光を反射させてシャラランシャララン、鉄琴の音色を奏でる。
 タコとイカはたくさんの手足でドラムマーチだ。そのリズムに合わせてトビウオがバスドラムの上を跳ねていた。
 サメたちは管楽器。シロワニのサックスがかっこいい。ネムリブカがフルートを、コバンザメがピッコロを。シュモクザメのトランペットはハンマーヘッドを介して遠くまで響いている。
 カラフルな熱帯魚たちはダンス担当。ブダイにハギにチョウチョウウオ。右に左に舞い踊る。
 少し進むと今度は縦軸、上下に踊るは、ああ!
「チンアナゴ!」
 声をかけるとあの可愛らしい両目がこちらを向き、頬にちょんっと、キスを落としてくれた。そしてまた隊列に戻って踊りだす。ここでは溺れる心配なんてなさそうだ。
(……なんて素晴らしいアクアリウムだろう。)
 逃げ水を追うとこんなところへたどり着くのか。楽しくて清々しくて愉快で自由なユートピア。ここには悲しみも怒りも恐怖もない。なんにも身構えずにただ漂って、歌いたければ歌えばいいし、踊りたければリズムに乗って、たとえ何もしなくても誰にも咎められることはない。一晩といっても時間の感覚はなく、一瞬のような永遠のような、曖昧な時を過ごすことができた。
 だけど。
「ここはあくまで【アクアリウム】なんだよな。」
 ぽつり呟いたひとり言。イルカは聞き逃さずに答えてくれる。
「そうだね。ここは残念ながら外界にはつながっていない閉ざされた空間。望むならずっといてもいいけれど、」

  決して夜は明けない。

 その言葉だけがはっきりと響き、魚たちの音楽がくぐもっていく。イルカとぼくは再びあのコーズウェイに立っていた。
「……帰らなきゃ。」
 そんな言葉が自然とこぼれる。帰りたいだなんてこれっぽっちも思っていないのに。
 相反するふたつの感情にうなだれていると、少年に戻ったイルカが言う。
「帰らなきゃってことは、君には帰る場所があるんだね。」
 微笑んだ顔にやわらかな虹色の髪がふわり。その色はオーロラを思わせたが、太陽フレアによる大いなる力ではなくて、もっと身近に寄り添ってくれる色だ。
「あのアクアリウムにはね、もう帰る場所がない子たちもいるんだ。そういう子らにとって終の住処になるのならそれもいい。だけど、」
 ぽちゃんっ。足元がひんやりとした水で満たされる。子供の頃、追えども追えども追いつけなかった幻の水たまり。いつまでも追いかけていたかったけれど、5時のチャイムが鳴れば踵を返して家路についた。
「ただいま。」
 そう言ったのはイルカだ。あいかわらず光を帯びたやわらかな笑顔で、
「ただいま、って。言える場所があるのなら、帰ってもいいんだよ。」
 夕暮れの土手道で、望むのなら逃げてもいいと差し伸べてくれたあの手が、今は帰る方向に向けられている。その道標みたいな指先を見て、ぼくが欲しかったものはこれなんだと理解する。
「イルカさん……あなたはぼくの気持ちを尊重してくれるんだね。」
 逃げ水を追うなんてばかばかしいと、誰もが言うだろう。些細なことは我慢すればいいんだと、何人に言われただろう。そんなことわかっていると、何度言い聞かせただろう。
 そのどれもが心に小さな穴を開けて、穴だらけの心が当たり前になって。自分が傷まみれなことに気付けなかった。いや、気付かないフリをしてないがしろにした。
 なのに、この出会ったばかりのイルカは、そんなぼくのすべてを大切に受け取って包みこんで許してくれると言うのだ。
「ありがとう、イルカさん。」その大きなやさしさに心からの感謝を。でも、だからこそ「ぼくは帰るよ。」
 決断という大げさなものではない。ただいまを言いたくなっただけ。それでいいんだ。思うままで。
 今この瞬間だけは、自分をないがしろにはしたくなかった。
「……そうか。わかった。」
 イルカが言うと、足元の水がすーっと引いていくのを感じた。陽炎が幻に戻る。
 愛おしい夜が明ける。
「夏はこれからなのに、」消えゆく天の川に向けて言う。「なんだか夏休みの終わりみたいだ。」
 寂しいけれど清々しい。やり残した宿題はなく、あとは新学期を迎えるだけ。
 ひとつ心残りがあるとすれば、目の前に迫ったさようならのこと。どう切り出すか考えあぐねていると、
「ともだちとお別れするとき、何て言う?」
 イルカはにこやかに、そしてあっさりと【ともだち】なんて言ってしまう。大人になるとどうしても濃くなっていく物事の境界線を、彼は簡単に飛び越えてくる。でもきっと、子供の頃はぼくもそうだったのだ。そして今はそれが許される。
「ともだちなら、そうだな……」
 急激に逃げていく足元の水を感じながら、残された少ない時間をかみしめてぼくは言う。

 「ばいばい、またね。」

 すると地球の自転方向を無視して空が巻き戻り、土手の斜面にオレンジ色の光が射す。サンダルの足を濡らしていた水はすっかりなくなり、もわりとした熱気がズボンの裾からお腹まで上がってきた。
 残り香みたいなかすかな陽炎に、少年の残像が揺れている。
「もしもまた逃げたくなったら、逃げない水が迎えにいくよ。見えなくても僕はずっとここで待ってる。だから、」
 そう言うと彼はからだ全体で大きく手を振り、
「ばいばい、またね!」
 虹色の光だけを残して、しゃぼん玉のように弾けて消えてしまった。
(……泣きながら目覚める時、いつもぼくはこんな夢を見ていたのかもしれない。)
 せつなくて懐かしくて愛おしい、そんな夢。もしも忘れてしまっても、何らかの形できっと残る。子供の時の思い出のように。

 「ばいばい……またね。」

 もう一度呟いて歩き出す。夕刻のコーズウェイ。
 遠くに逃げていく陽炎を追ってみたが、もう追いつくことはできなかった。

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