「11月18日を歩いた、その後」
1619年11月18日に、長崎の西坂で殉教した5人の足取りをたどったZINE『11月18日を歩く』は、「本屋ウニとスカッシュ」「MAKIJAKU製作室」によるZINEイベント「UNI✖️MAKI✖️ZINE 2022」で、たくさんのかたが手に取ってくださった。『長崎手帖をよむ』に続く完全自家プリント手製本で、しかも『よむ』に使っている11号針ホチキスはまったく歯が立たず、事務クリップによる製本となった。本文92ページになったのは、挟口19ミリのクリップの限界がそれだったからだ。(『長崎手帖をよむ』が42ページなのもおなじ理由)
なので「ページ数が許せば書きたかったこと」が、まだあった。さらに、本を作ったあとに調べたことや、たどり着いた資料もある。なにより、5人が殉教した3年後の1622年9月10日には、おなじ場所で、彼らの家族や宿主、匿っていた神父たちが殉教していて、今年でちょうど400年を迎える。なので、「11月18日を歩いた、その後」を、またポツポツと書いておきたい。
ひとつには、11月18日のあとのこと。5人が殉教した数日後にも、また西坂で殉教があったり、残された家族がどうしていたかなど。
もうひとつには、大村の牢獄のこと。村山徳安が匿っていたモラレス神父をはじめ、たくさんの人々が大村の鈴田牢に捕らえられていて、1622年の殉教までをそこで過ごしていた。
しかしまずは、なんといってもスペイン商人アビラ・ヒロン「『日本王国記』の続き」!
上のふたつは、まぁ、その気になれば『イエズス会年報』など普通の図書館にある文献で調べられる。でも「『日本王国記』の本になってない部分」は、なかなかたどりつけないと思われる。『日本王国記』を持っている私も、それが存在することすら知らなかった。
でも、あった。1615年から、1619年の3月15日までの訳が。
「11月18日を歩く」には
『日本王国記』最後の日である三月十五日は、モラレスと徳安が捕まった日だ。
と書いた。
ひときわ弾圧が強められ、宣教師とその宿主たちが本格的に捕まえられる、そのころの記録があったのだ。
あった、と言っても、本にはなっていない。「アビラ・ヒロン」や「日本王国記」の検索結果をよくよく見ていくと、昭和43年から47年にかけての清泉女子大の紀要に掲載されているとのこと。それがまた、市や県の図書館にはなく、長崎で見られるのは長崎外国語大学の図書館だけだった。すぐさま電話して、閲覧を予約して、ついに対面したのだ。そこには「11月18日を歩く」を作りながら何度となく想像した人たちがいて、会ってもいないのに再会できたみたいな、妙な感動に包まれた。
というわけで、これから『日本王国記』の「11月18日を歩く」に関連するところを見ていきたい。