分知町のドミンゴ
1614年の禁教令では、宣教師の国外追放が命じられた。しかし1618年、とっくの昔にいないはずの宣教師とそれを匿う宿主に対して「捕まえたら生きたまま焼き殺す」というお達しが出た。つまり彼らは歴然として存在していたのである。アビラ・ヒロンの『日本王国記』の(現存する)最終章「奉行・権六が首都へ出発するまでにこの市〔長崎〕で起こったこと」には、まさに宣教師と宿主が次々と捕まっていく様子が記されている。
十二月十三日聖女ルチアの祝日の夜十一時と十二時の間に庄屋 joya の屋敷から横目 yacumes や奉行の家来の武装した四隊か五隊が槍その他の武器と多数の提灯をもって出て来た。彼らは四方に分かれて行って、宣教師がいるかどうかを見るために同時に数多の家を襲った。そのうちの一軒は分知町のドミンゴ・ジョルジの家であった。
おお! いきなり『11月18日を歩く』の五人のひとり、ドミンゴ・ジョルジュの家だ。しかも「分知町」ってはっきり書いてある! 本を作った段階では、分知町に「住んでいたという説もある」というところに止まっていたのだが、やはり分知町に家があったようだ。分知町は、現在の築町にもあたり、ポルトガルの幸運の鶏「GALO」の像が立っている。台座には「ポルトガル人が築町に多く住んでいた」とある。
西坂に向かう5人が、長崎の町をどんなルートで歩いたかは「元和五年、長崎大殉教図」からは、はっきりとはわからない。絵が随分と傷んでいて、現在の万才町あたりの様子はまったく判別しないからだ。そこで私としては、NTTビルあたりにあったとされる本博多町の奉行所で最後の吟味と判決が行われたあと、
まだ建物と病院は残されていたはずのミゼリコルディア→村山徳安の縁者も多かったであろう島原町→ドミンゴ・ジョルジュが住んでいたであろう分知町→すべての人に思い出が深かった岬の教会跡地→レオナルド木村に縁が深い平戸町……
を、5人が「パレード」したのではないかと想像して歩いてみた。イエズス会の年報には、
マカオから来ているポルトガル人の信心も、確かに割愛してはならない。彼らはその当時市中で商業を営んでいたが、同国人である殉教者ドミンゴの後から、涙をさめざめと流しながら随行した。
とある。ドミンゴの殉教の日、分知町はひときわ悲しみに包まれていたことだろう。
襲撃の夜に戻ろう。
(武装した一行は)そこに着くと、音を立てずに外側からくぐり戸の掛け金を短刀ではずし、中に入って我が家のようにふるまった。だから少なくとも彼らがドミンゴ・ジョルジを起こした時にはすでに家中を荒らしまわっていた。この家にイエズス会の全管区長パードレ・カルロス・エスピノーラとイルマン・アンブロシオ・フェルナンデスがいた。役人は彼ら三人をことごとく縛りこれを庄屋へ連れて行って、奉行の馬小屋に閉じ込め苦しめ始めた。
その後ドミンゴはクルス町の牢屋に、パードレとイルマンは大村の鈴田牢に送られた。他の神父や同宿たちが鈴田牢に送られる際、アビラ・ヒロンは浦上街道らしき道を、大勢の群衆とともに付き従っている。しかしそのひとときも終わり「私たちはもう非常に暗くなっていた市に帰った。大勢の人々が激しく泣いたり嘆いたりしながらついて来たので、私たちも同じように泣かないわけにはゆかなかった。」
クルス町の牢屋のこと、他の捕縛の様子はまた次回。
(『日本王国記』訳文は佐久間正氏による清泉女子大紀要、昭和45年発行18号『ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンの日本記六』より)