「愉気」ということー人間の実体は気である-9
自分の体を保つために、自分の心では大丈夫だと思っても無駄なことがある。口では「大丈夫だ、怖くない」と思っていても、手が動かなくなる。肩が下がらなくなる。大丈夫だと思っていても、そうならないことがある。やる気になると普段の倍の力が出るのが、気が滅入ると普段の力も発揮できなくなってくる。
結局、生き物というのは、物として存在するというより、生活している人間同士が二人以上でお互いの気を受け取り合って生活しているのですから、人間はある意味では、気によって生きているのです。物として見るならば、生きている人間と、死んだ人間とは違わない。分解してみると、鉄の何パーセントと、水分の何パーセントと、その割合は同じなんです。
しかし、体中がこわれたからと言って死ぬわけではない。ところが何処か一ヵ処こわれても死ぬ。だから、まだ死なないうちに他人の体へ移すと、なお生きているいるような心臓が、自分の体の中にあったなんていうのは不思議であり、”持ち主が駄目なら他所で働きます”なんていうことはけしからんことです。それでも、そういう血からを持っている。どうしても同じ人間のでなければいけないというのは皮膚ぐらいなもので、皮膚はその人のものでないといけない。そうして、どこかがこわれると死んでしまったり、体中こわしても死ななかったりする。
京都に九十才にある御婆さんがいて、その人は八〇才ぐらいの頃から弱って、私が京都に行く度に見舞いに行ってましたが、その時一緒に見舞いに行った人の方がもう死んでしまって、そのお婆さんは平然と生きているのです。どっちが弱いのかなと疑問に思いましたけれども、そんなように、年を取ったから死ぬとも限らないのです。
(本)健康生活の原理・活元運動のすすめ、、より
細かく区切って書いています、、ー晴哉はつづくー。