「愉気」ということー気の動きで変わる人間の行動ー11
その「気」が、今までの人間研究には全く無視されていて、人間はものとして生活し、1日三度食べなければならないとか、三杯食べればお腹がいっぱいになるとか、栄養物を食べれば栄養が充ちるものだとか思い込んでいるのです。
ところが、お酒を飲んでみると、三杯で陽こともあれば、五杯飲んでも酔わないこともある。この間も、ある人に「どれくらい飲んだか?」と聞いたら、「三合ほどです」という。それにしては肝臓が腫れ過ぎているので、「一体何を三合飲んだか?」と聞いた。三合だと言うから、わたしは日本酒だと思った。ところがウイスキーだったのです。ウイスキーを三合飲んでも平然としている人もいれば、日本酒をお猪口に三杯飲んでも寄ってしまう人もいる。
気分が愉しければ、お芋でもみんな食べてしまう事もありますが、お腹が空いている時でも、「ハイっ、夕食です。ハイっ、御食べなさい」なんて出されると、急に食欲がなくなってしまう。自分の家ならまだしも、よその家で、汚い手でお皿の縁などを掴んで「はいっ」なんて出されようものなら、食べる気が半分抜けてしまう。
しかしそれを分析して理解すれば、彼女も忙しいからとか、田舎から出て来てまだ礼儀を知らないのだから、と考えればなんでもないことなのに、そう考える前に厭になってしまう。気で厭になる。そうすると食べる気も抜けてしまう。
また、やる気をもってする仕事は疲れない。やる気がなくなると、簡単なことをするだけでも疲れてしまう。ある政治家が、「とても疲れた」言っておりましたので、「それはやる気がきがなくなったから疲れるのだ。やる気を持ってやったら疲れることは無い」と言ったら、「そう言えば俺も前はやる気があったが、近頃はやる気がなくなった」と言っていました。スキーに重い荷物を持って行くのでも、それが自発的なら疲れないのに、人の荷物持たされると直ぐ草臥れる。草臥れたと思っているところに一万円のチップが出ると、途端にまた元気が出て来る。だから、物が重いか、軽いかといことも、その人の、その時の感じ方で変わってしまうのです。
ましてや人間の体が、抵抗力を発揮するとかしないとかいうようなことになると、気の受け方で変わって来る。そういうことがまた人間の見方を変えていく。私も、人間の見方を変えてしまったのです。みんな物としてだけ見て、可能性が十だから十だという。しかし、生きていることが、不可能を可能にしてゆこうとする、そういう何かを絶えず体の中でつくっている力ならば、他人にも無意識に働きかけているわけです。人間を物として見れば手も足も同じなのに、一人一人がみんな同じではない。
よく私にいろいろ訊ねようと思って来る人があります。しかし話しているうちに、みんな何となく帰ってしまう。何をしに来たのだろうかと思う。後で効くと「こういうことを訊こうと思ったが、訊くのを忘れてしまった」と言う。「忘れるなら、紙に書いて来たらいいじゃないか」と言うのですが、その書いた紙を懐にいれておいて、出すことを忘れるらしい。しかも心配事が沢山あるのだそうです。それなら会った時に言えばいいのに、言わない。なにか安心してしまって、言うことを忘れてしまうらしい。
人間の体の中には、意志とか、物としての力でない働きがあって、それがそういう物の力を更に強くしている。あるいは弱くしている。ちょっとある人に会ったことで急に元気が出て来たり、ある人が見舞いに来たら、急にしょぼしょぼしてしまった、というようなことは沢山あります。それはみんな、自分の体の中の気の動きで変わったり、人の身体の気の動きで変わったりするのです。