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理系と文系、それぞれが求めるシンリ。

「言い切る人間は頭が悪い」と言われる。

いくらでもある他の可能性を、断言することによってすべて無にしてしまうのは愚かな行為であると。ひとつでも反例が見つかれば「偽」とされる数学の世界ではあり得ない言葉選びなのだろう。

現代は、数字と理屈が社会を支配している。
コロナ禍を通じて感じたのは、そうした理系思考の「歯切れの悪さ」である。

何かを主張したとき、必ずと言っていいほど「そうでない人もいる」と反論する人が出てくる。
「〇〇ってこういうものだよね」なんて言えば決まって「主語が大きい」とバカにする人が現れる。

反例が存在する以上その命題は「偽」であり、言い切るのであれば矛盾のないように場合分けする必要がある。

そう言っている。
そしてそれは論理的には正しいのだろう。

しかし多くの場合、そんなことはわかっているのである。その上で断言している。

文系の使命のひとつに「噛み砕いて伝えること」が挙げられる。無限の可能性を探る理系とはそもそもの役割が異なる。

「伝える」とは、心を動かすということ。
どれだけ正しくても相手の心に届かなければ意味がないし、多少間違っていても「刺されば勝ち」という世界だ。

学習塾なら「成績がグングン伸びる!」と謳うべきだし、愛の告白なら「世界中の誰より君を愛しています」であろう。
「伸びない生徒も多くいますが」「ひょっとしたら自分より君を想う人もいるかもしれませんが」なんて言ったところで、そんな言葉で人の心は動かせない。

いろんな人、いろんな状況があるとわかった上で「言い切ること」は大変なリスクだ。大きく間違っていたら取り返しがつかないし、そうでない側からの反論も覚悟しなければならない。

それでも「言い切ること」が必要である。
言葉は背負ったリスクも込みで「伝わる」ものだから。予防線を張り巡らせた言葉は誰にも届かない。届かなければ何も言っていないのと同じである。どれだけ恐ろしくても、無限にある可能性の中からひとつを選び抜かなければならないのだ。

人はそれぞれ違う。
一人ひとりについていちいち場合分けなんてしてられないし、だからといって伝えることを諦めるわけにもいかない。

「今日の感染者数は〇〇人です」
「外に出れば感染する可能性があります」
「マスクをしないと怖がる人もいます」

これらはすべて「理系的な正しさ」である。

理系は「真理」を求め、文系は「心理」を探る。同じ「理」でも、理系的な正しさに「心=人」は関与しない。むしろ人間の感情は論理を形成する上で妨げとなる存在である。人を見ず、数字やロジックに目がくらみ、いつまでも変えられないままでいるのである。

「伝える」とは、考えに考え抜いて最高の線をペン入れしていくこと。鉛筆で何度も線を重ねた下書きなんて誰かに見せるものじゃない。

美しい絵を描いていこう。

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